どうしたの? 

 

翻訳なんかやっていていいのかねえ、ぼくが。ぼくのなかにはもっと遙かに美しいものがあるのに、社会的責務に促されるようでは、いいのかなあ。 

 

人間の魂の二律背反、と言えば聞こえはいいけど、ほんとうにどうしたらいいのでしょうね… 

 

そこを見極められないところが、二律背反なんだよね… 窮極においてどうなのかは、なかなか垣間見ることができないんだ。矛盾は窮極にあるのではなくて、人間の意識の側にあるんだ。

 サント・シャペルの紫の玻璃窓、あの調和は人間の感覚に語り掛けるのに、人間の意識の把握力を超えている。あれと同じだね。人間の意識を超えた深くて高い調和がある。きみの弾く「きっと忘れない」もそういう世界を経験させた。あれが信仰だ。そういうものをけっしてわすれてはいけないんだ。わすれるからストレスが生じて病気になる。 

 美の探求というものは、意識的にやらなければならない。それが高田博厚研究の意味だ。魂の窮まるところなんだよ。ほんとうの信仰の境位だ。感覚と意識を集中させる不断の鍛錬だ。じぶんの魂のためにね。そのためには、世のなかのことを忘れていい。そうしないと自分の魂をどんどん忘れてゆくよ。平和のなかでしか自分の魂とは逢わないんだ。

 

 

 

 

 

 

『 彼(高田博厚)がパリに来ると、スイスのロマン・ロランのもとに同行するに先だって、私は第一番に彼をサント・シャペルに連れて行った。十三世紀に聖王ルイが、キリストの荊の冠を象徴して作ったこの建築と、その中の色玻璃窓とは素晴らしいものである。パリで何よりも早くそれを訪れるようにとロマン・ロランから指示されていた。それは、フランスの《美》の心臓である。一般に主知主義的と呼ばれるフランス国民が、敬虔と感覚との無比の調和を茲に作り出している。紅は愛の炎のように燃え、碧は―プサン、シャルダン、セザンヌにつらなる碧は、セレニテに澄み、色彩の秘密が、最も純粋なミスチックと調和している。人間精神の西と東とが、薔薇窓の光輝となって照る。』 

 片山敏彦「高田博厚について」(高田博厚『フランスから』1950、294頁) 

 

4月21日1時写す