初再呈示

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気づきを簡略に記しておく。

 

真理は、美と愛に従属するものである。 美そのものは欺かない。愛は美への志向である。真理は、この志向そのものを生きるところに展開される。美は魂であり、魂は美と愛の根源である。真理とは、魂が魂に向かうことである。魂は、自己の魂に、他者の魂に 向かう。 

 

人間にとって真剣な本来の「真理」の本質は一般的なものではない。1+1=2 というのは真理の本質の例にならない(事柄の妥当性でしかない)。 だが人間は、いかに美への感覚と美への事実的な愛とをいだいていようとも、意識が一般的なもの(すなわち概念)を志向する程度に応じて、魂の志向する美や愛を、一般的なものという網によってとらえるという罠に陥る。これには個人差があり、人間の最も深い問題はここに由来すると思う。 そもそも一般的なもの、つまり概念というものが、攻撃性を内包しており、この攻撃性は粗雑性と換言できる。この一般的なものの言葉で成立している学問は、どんなに概念を彫琢しているつもりでも、この粗雑性を免れず、そのかぎりで攻撃性を内包している。ゆえに、学問が学問として思念している真理は、攻撃性を本質的に内包しているのである。学問が論争によって展開されるかぎり、その証左をわれわれは日常的にみている。学問的な真理の真理性そのものに、それは内包されている。

 いまのぼくは こういうことを無視してよいのだが、あえて記しておこうと思った動機は、「人間の最も深い問題はここ(意識の網という罠)に由来すると思う」からである。 こういう記述そのものに いまのぼくはあまり時間と意識を費やしたくないのだが、人間関係における軋轢は殆ど、各人の意識が通常の生でどの程度この「意識網」のなかに囚われて生きて言動しているかから、生じている、とぼくは いま気づいたと思っているので、このことを記しておこうとしたのである 〔この反省を自らにおいて為し気づくのは至難であるらしい。意識網への囚われは性格的なものらしく、学の有無や、(いわゆる)感受性の程度にさえ、関係ない〕。例えば、他者に有意義な忠告のつもりの言動でも、己れの歴史性から展開される動機にもとづいて生きている他者にとっては、自分しか了解しない感情や事情を包む己れの生の全体にたいする、粗雑な(本質的に不当な)規定呈示でしかなく、自分の生への攻撃でしかないからである。この他者が、自覚的にみずからの魂から生の営為を為している場合、事は重大であり、決闘に値する事態となる。 これは大げさで過敏なことをぼくが言っているのではなく、これが真剣な人間の真実なのである。双方が本気で自分の生など生きていようとしていない者が多い日本のような場では黙過されているだけである。そういう社会風土で、根底ではけっして本気で敬意のいだかれない道学的学者が倫理を述べているだけなのである。

 簡略のつもりだったのでここでやめる。

 これはかなりなまなましい人間問題を、ぼくの人間経験の結晶的想起のなかで ふと直観したと思ったことを、書いたのである。「個人差があり、本人がそれ(自分における「意識網」の浸透程度)に気づくのは至難である」、という点を強調しておく。

 

 

 

 

 

ぼくに関しては、だいたい思想を直に書物から身につけて、意識のみで学問者として「大人」になろうなどとしたことが、間違いであり、しかも根源から本心ではなかった。だから、いまのような状態になって、本心ではないものから自分にもどることになったのだという理解はできる。それでもずいぶん「学問」で粘った。そして 何をもとめるべきかということで ぼくは迷わなかった。その経路が、ヤスパース、メーヌ・ド・ビラン、高田博厚だった。ぼくはぼくに必要な思想者としか関わらなかった。 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくもラファエロの大きさは最初からはわからなかったろう。いまは、他の画家とくらべてその意味をかんじるようになっているのに気づいた。 

 

〔なぜここでラファエロが出てきたのだろうか。筋を辿れる脈絡はない。〕 

 

 

 

 

 

#魂#美と愛#真理