初再呈示 

 

『《このような「自然」の中に在って、「人間」が覚える親密感(アンティミテ)が「自我存在(イダンティテ・ド・ソア)」の承認なのだろう …》
 「自己同一性」と直訳するであろう原語を先生は敢えて、と言おうか、「自我存在」と言表している。』

 

「自己同一性」こそ「自己存在」なのである。書く文章においてもこのことに意識的な大先生はさすがである。それをヤスパースが主著で述べているのであり、先生は彼を読んでいたと思われる。これがヤスパースの「実存」である(ぼくは実存という言い方はあまりすかないが、ヤスパースも象徴として使っているのである)。

 

思想も自分も再び引き締めてゆかなければならない。ぼくは普通の人間のような世人とのかかわり方はできない。キリストのようなかかわり方も、ぼくの本路から逸脱する。あえて言えば僧院の壁で囲まれた空間のなかに住む修道士だ。

 

 

テーマ:

 

〔 先生は、後、晩年に書いた自伝「分水嶺」- IX 3 -でも この情景経験を記している:
 《空と海の広大さに競うようなエトナの無際限の裾野には、フランスの旧火山地帯の中央山塊(マッシーフ・サントラル)の方々に突き出た孤峰(ピュイ)みたいに、筍のように突き出ている丘がたくさんある。その中のいちばん高そうなのに、私たちは息を切らしてよじ登った。ようやく二人が坐れる頂上に腰を降した。はるか右と左に裾野の斜線が空を限って、大海に切りこんでいる。そして大地も海も空も、雲も、それに連なっている火山の噴煙も動かない。なんという「不動(インモビリテ)」!! 茫然として黙りこくっていた〔朝吹〕三吉が不意に叫んだ。「ああ、これだ!!」 彼が愛読しているジイドの『背徳者(インモラリスト)』の中の一情景を思い出していたのであった。〔・・・〕このような「自然」の中に在って、「人間」が覚える親密感(アンティミテ)が「自我存在(イダンティテ・ド・ソア)」の承認なのだろう……》
 「自己同一性」と直訳するであろう原語を先生は敢えて、と言おうか、「自我存在」と言表している。先生の思念する自我が、この箇所で よくしめされている。〕





 高田が「彫刻とは不動のものである」との根本規範を感得したのは、三十八歳時のこのシシリアとギリシアへの旅行においてであったという。不動とは死せる硬直ではない。時の流れの中に現れていながら不滅のもの、時間の浸食作用そのものを通して自らの本質を顕わに啓示するに至るもの、それは、生きてきた自我であり、同様に自らの時間を内にもつ、それ故に《「生きているもの」》として感じられる諸々であり、それ故に愛される他者の魂的なもの、存在そのものである。「愛する」「愛される」の現象以前の、愛情がそこから生ずる根源〔的なもの〕(オリジネール)である。「在るもの」、精神が拒否できないもの、それこそ高田にとって「美」そのものであった。彫刻制作とは、その存在のイデーの象徴(サンボル)を生み出すことである。