ぼくはぼく中心の哲学すなわち思想しか持てない。これいがいは自己疎外である。これは自明のことだろう。もうこのことをはっきり打ち出すべきだとかんがえた。偽善者でないかぎり誰でもそうである。ところで哲学すなわち根本思想とは何だろう。それは既にぼくの持っているものであるから、この欄に既に表明されているので、ここであらためて思念することは、いま控えるとして、ぼくがいま言いたいことをここに書く。それは、自己反省がしっかりできていない者はだめだということだ。性格はまだ本人ではない。自己反省から生み出されるものが本人なのだ。(ヤスパースはこの点ほんとうによいことを指摘してくれている。)この自己反省に、ぼくのほかは誰ひとり目覚めていない。自己反省は自己否定ではなく、真の自己肯定を生み出すものである。そのための自己反省が、ぼくが実際に出会った者の誰ひとり出来ていない、とぼくは言うのである。なぜなら、ぼくが実際に出会った者の誰ひとり、気分のわるくならない者はいないからである。と、これを言おうとして、若干訂正したい。気分のわるくなる面を感じない若干のひとびともいることを思いだしたからである。それは多分、自己反省ができているひとびとだろう。ぼくが言いたいことは、ぼくが気分のわるくなる面を持っている人間というのは、自己反省ができていない、ということなのだ。そして、それはぼくのせいではなく、その人間のせいだということである。この点に、ぼくはぼくの存在を懸ける。ここに、ぼくはぼく中心の哲学しか持てない、と書きだした、動機があるのである。換言すれば、ぼくの感情は絶対的な評価基準になる、ということの肯定を、ぼくはしたいのである。そう言えるくらいには、ぼくの自己反省は、確かなのである。ここで、前のめりになって、真理とはぼくである、などとは言わないにしても。

 要するに、ぼくの意味する自己反省以前で生きている人間には、ぼくは良い感情は持てない。ぼくが良い感情を持てないことが、そのしるしである。そのことを言いたいのである。これはぼくのせいではなく、その人間の責任である。

 

 

 

これはこのくらいにして、言っておきたいことがある。法則性あるいは社会性と拮抗する位の反法則性あるいは反社会性がなければ人間は健全ではない。社会の側でもこれはわきまえておくべきである。絶対的従順は、自己にたいする暴力である。激昂と反抗を抑えたら、自己への義務に反することになり、冷静ささえ回復できない、という時宜というものがある。