悪魔のやり方として、ひたすらぼくの至らない点を触発し、注意を向けさせて、ほら、おまえはこの程度の人間だ、と、自己卑下意識を根づかせようとすることがある。そのために、ぼくの身近な者から通りすがりの他人までを総動員するのだ。ぼくははっきりと今、ぼくを見込んでの悪魔の布陣が長い間行われてきたのであることを、思い起している。ぼくの本質ではないことに、ぼくの意識を逸らせようとすることが、ずっと行われてきたのだ。そして、ぼくの友人のつもりでいる者にまで、ぼくがじぶんを肯定的にみようとする自己配慮にたいし、ぼくはじぶんをいいふうにみようとしているが違う、と、遠慮なく言わせることまでしているのである。ぼくはこういうすべての、誠実心に訴える悪魔憑きの手法にたいし、自分の本質を信じて肯定することこそ、真の誠実である、というテーゼを対峙させよう。まったく、ぼくの周りに寄ってきた者らは、そろいもそろって、巧妙な悪魔の使者であり、精神的刺客だったのだ。みかけの善男善女というのは、まさにこの、優れた魂の者を陥れる者たちだったことを、ぼくは今では完全に疑わない。ここまでぼくの見識が固まったのは、容喙現象の経験が駄目押ししてくれたおかげである。 

 よし、ひとまず擱筆。こういうことをぼくは、至った認識として記したかったのだ。そして、その善男善女らのしっぽまで、容喙現象とは関係ない時期にも、そして容喙現象後はあらためてなおさら、はっきりと確信したのは、今となっては劇のように面白い確認の見ものとなっている。