誇りに怒りはつきものである。誇り(自尊心)による怒りは、相手をやっつけなければ収まらない。いまさらやっつけられないという思いで悲観したり、どうやってやっつけるかと思案して精神を落としたりすべきではない。悲観する怒りは自分を蝕むものとなる。だから怒りを否定するという発想が生じるのだが、よく真実を見窮めて誤らないようにするべきである。天に向かって、時空を超えて必ずやっつけられると信じるならば、それは信仰そのものに導かれたのである。人知を超えた仕方で、正当な怒りは遂げられる。怒りそのものを否定しないことだ。怒りの意図を諦めないことだ。ぼくの言うのは義人の怒りのことであって、正しい者の怒りである。なにかによって必ず真の怒りは満たされ納得させられると信ぜよ。そのとき、じぶんは神の怒りに参与したことになる。信仰へ導く怒りがあるのだ。神から罰せられるのではない怒り、神聖な怒りが。それは魂からの、誇りからの怒りのみだ。