四度目の再呈示  ぼくの一貫性 

 

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無感覚になるのは死ぬよりおそろしい

怒らなくなれば「人間」はおしまいだ。何に怒るか。


ぼくは、自分は潰されたと言い、しかし潰れなかった、と言った。わかってるか。


ぼくの欄をはじめてご訪問になった方は、「内なる祭壇」 796 加筆(高橋元吉とのことなど)  のような節から まずお読みください。
 思索性の方は 主題別欄 「自我の内的自由」 などに挑んでみてください。ぼくもまた いまの境位から このような自分で残した、高田先生と行なった自分の思索の中にあらためて戻ってみなければならないと思っています。読者は、高田さんが何者であるかに気づくでしょう、反省力を極限まで鍛えられて。


ヤスパースは最初 精神病理学者、次いで心理学者、そして哲学者となった。この哲学は、自ら主体的であることによって他者に触発的(主体覚醒的)であることを意図的にこころみている。ぼくはこの精神方向の実践によって さらに愛自者、芸術者、つまり掛け値なしに自分自身であろうとするのである。こうして「高田博厚と共に」あるのである。この沈潜に何人(びと)が附いてこれるであろうか。あらゆる普遍知のこころみの雲を突きぬけて ぼくは孤独である。だから照らす。が、それはぼくの知ったことではない。キルケゴールやニーチェよりもぼくは野心からとおい。此の世の軽さへの、意図せざる鉄拳


ぼくは愛自者であるから愛国者であるのだ。逆ではない。こう断言する者は右でも左でもありえない。ヤスパースにおいて真理・自由・平和の秩序(順序)が動かせないように。


〈感情〉や〈理論〉のあらゆる説得力をぼくは拒否する。それらは(主体に)外的なものとして受動を強いるから。「情熱」と「理念」でぼくは生きる。これらは主体の根源から意志の自由として生じるから。この区別は何度でも繰り返して言う意味がある。


信仰のない者は例外なく悪である。これは昔の西欧人の偏見ではない。そのことをいま痛切に思う。信仰とは心の祭壇であり、教義ではない。イデア的に聖なるものへの感覚であり志向である。


心理学は案外役に立たないとぼくは直感する。だからヤスパースは心理学から哲学に移った。観察分析することと自らが真理探求することとは違う。このこともいま痛切に感じる。


現代の〈知識人〉と〈芸術家〉はよほどしっかりしないと、社会的特権を乱用して人間を悪方向へ誤導する。ネット世界の無秩序ぶり、規制以前の秩序(美醜)感覚崩壊ぶり、即ち無良識をみるだけでそれは明瞭である。信仰に基づかない行為が悪であることの証左そのもの。自由についての現今フランス人の履き違えを嘲(わら)えない。現代への破壊的反逆を非難できない(現代そのものが聖なるものを破壊している)。美と醜の区別がつかない。美醜の区別は倫理の基本である。それを破壊しているのだからぼくは現代に同情し得ない。

信仰とは 美の存在への信仰であり これに基づいて生き行為し この世を秩序づけることである。これが文化である。現代は技術による野蛮であり 文化の対極である。信仰がない(信仰を生きない)からである。

 なぜ、死ぬことを哲学者まで殊更に問題にするのか? 死ぬより問題な おそろしいことがある。人間の魂に、その痛みに、無感覚になること!!
 
 人間が「人間」であり得るかぎり、つまり魂であり得るかぎり、魂は死よりおそろしいものを実感する。生命からでなく魂から生じる実感。自分が魂である証を感じなくなること!!

 いまの〈知的指導層〉、学者・芸術者の、〈大衆文化〉語を躊躇いもなく口にする完全大衆化ぶりは何だ! どんな古典解釈も大衆並にしてしまう!その、耐えられない軽い存在性は、生活意識を反時代的なほどに根源から改めなければ、けっしてなおらず、本物を期待し得ない。


ぼくはこういう強い言い方をするが、確信と純粋からであり、多数相手の〈謙虚〉者よりはるかに内心は謙虚に自分を自覚する。しかしこれは自分の内のみに留めるべきで、外への謙虚は何の創造性も無い。〈自分〉の前で謙虚である者しかぼくは信用しない。自分の内に〈祭壇〉をもつひと。

ぼくは健常者よりはるかに文を苦心して、苦しんでつくっている。書き遺すのは今しかないといつも思いつつ。作曲できないはずの状態のベートーヴェンが(だからこそ自殺を一度ならずかんがえて)そこから創造を魂の力で引き出しているのと同じだ。〔どちらが凄惨か。ぼくのほうだと思っている。ぼくのようになったら彼はピアノも弾けず精緻な作曲もできない。〕 ぼくが書くすべては魂の証(実証)であり、それいがいのことなどぼくの情熱はかんがえたこともない。自分を一元化する実践なのだ。ここにすべては溶かし込まれる。そのためにぼくはいっさい意図などはたらかさない〔意図などはたらかしたら「神に面する」ことなどありえない〕。「あるがまま」は この一元化の方向性を、非意図的に、精神本能的に志向していなければ何の意味もない戯語である。すなわち、日本人には苦手らしい「己れの神」に臨む態度を感得しなければ、人生性そのものが成立しない。これは神社の神などではもはやありえないのだ。

今日は夜を明かしてしまったが、もうひとこと書いておこう。談話か講話記録で森有正がこのように言っていたことを覚えていて、いま痛切に噛み締めている:「他者というものが いかに執拗に私達ひとりびとりの生活を注視しているか。しかもそれは愛によってではないのです。」 社会の者達というものはそういうものだ。現在こういうものをどう言うか 言うもすかない。品位なき者どもはすべてこれの予備員だ。こういう連中の一人になるかいなか、いま決めたらどうだろう。
 この世界はけっして無意志な物理法則世界ではない。或る意志をもっており、この意志は一と同時に多であるような集合的な意志であり、そしてこの意志は・・・



And to be by your side... https://youtu.be/RxHd6j5xfCU が今日でもう ちょうど1100vues になりました 最愛のきみへ 〔すべて100000 vues を超えているきみの演奏動画は ぼくもふくめた皆が支持している。ただぼくはこの単曲を自然な出会いで愛し見守っている。〕
 29日



先節で書いた、先生が親友たちの最期に立ち会うことがなかったこと、ぼくが先生の葬儀に行くのをやめたこと、この二つは同一根であることが実感できてきた。「生」のなかにこそ先生の親友たちも先生自身もいるのである。そしてこの「生」は地上の生のみではない。死が奪えない永遠の生、その永遠の現れとしての生、それにしか先生もぼくも集中していなかったということだ。世俗の生形式を問題としない。「生きる」ことなのだ。無意識次元でこの志向が徹底しているから、この二つの事象が先生とぼくにおいておのおの生じたのだ。ぼくはこの自覚が自分の内ではっきりしてくるのに時間がかかった。思想ではなく感覚だったからである。このことが根源的に嬉しい。生きた〈形而上的感覚〉を自分が生きていると思えることが。

 この節全体で言われていることも、深く 〈サンス・メタフィジック〉をめぐることなのだと気づく。


ぼくの感覚と判断の正当なることを信ずる、ぼく自身のことについては。この信は、ぼくの「真実」がぼくの感覚と判断に一致しているという信である。ぼくの感覚と判断がぼくの「真」である、「真」に一致する、という信。他者からの評価よりこれを優先しなければならぬ。自分への信仰。つまり 自分の感覚と判断への信仰。なぜならこの信仰を信じることが自分にとってはいちばん最善で真理に近いのだ、という信仰。自分への信頼とはそういうことである。他者に弁明することは要らない。

すべての他者もこのように言うことができるであろうか。ぼくはできると思う、自ら自分を省みて 自分は誠実に ぎりぎり生きている と その人が思えるかぎり。問題は、そういう人(実際にそれを実践している人)が何人いるかということだ。



ぼくはクラシックとポピュラーを本質本位と効果本位として理念型的に分けたが、すべては「人間存在」(実存)をもとめての階梯である。真の愛への通路や この愛の触知可能性があるかということが問題なのである。「本質」とは、メタフィジックの要求に適うものである。それがあるかないか。建前や形式ではない。〔と時々は思うが実際はどうなのだろう。〕 30日
 
 



死ぬつもりで生きるのではなく 生きるつもりで生きなければならない。