哲学者としてのヤスパースは、精神的な馬鹿からは舐められる運命にあるようだ。精神的な馬鹿とは、誠実ということへの感覚が欠如している者のことである。そういう意味では人間判別の礎になっている哲学者である。もっともヤスパース派の人間が全部感心すべき人間ではないことも解っているので、問題は二重である。しかしぼくにとっては、まず、ヤスパースに感じるか否かで、人間は判別される。そのあとはまたいろいろあるが、とにかく第一判別の礎にはなっている。誠実な人間でヤスパースに感じない者、彼を尊重しない者というのは、ぼくにはちょっと想像できないからである。ヤスパースはぼくにとって、そういう意味でも大事な哲学者なのである。 

 

いちばんこなまいきなのは、〈ヤスパースは好きだけどハイデガーにくらべたら〉というような言い方をする者であり、ほんとうに内容的に尊重する感覚があったら、そういう言い方は出てこない。ここでも、言う人間こそが判断されるのである。 

 

 

 

ヤスパースはぼくの嫌いなドイツ人であるが、そういうことが問題にならないほど、彼もドイツを超越している。ぼくの哲学はヤスパースで決まった。あとはその補完をしているのである。ヤスパースは広く親しまれるべき哲学者である。