日本人の自己主張、正当化で、気になることは、大事な核心部で、他人の意見を平気で論拠として引用することだ。ぼくにはおよそその気持が理解できない。じぶんの感覚や意識だけで支えられず武装できない主張なら、最初からしなければよいのだ。感情を傷つけられたから仕返しをしたい、しかしそのための自己主張に自信がないから、他人からの支えがほしい。人間としてこれほどあさましい、潔さと名誉心の欠けた態度はない。つまり、日頃の生き方に根本的な問題があるのに、それと面と向かおうとせず、のうのうとぬるま湯の生活をしているつけが、ここぞというときにじぶんだけでじぶんを支えられない有り様となっているのにほかならない。そうとう思想的なことも言える日本人に、かなりそういう失態がみられることが問題なのだ。空気になびき左右されるなとは言うは易しだが、問題は、空気以前のこういう根本的な自我のあり方にある。ほんとうに、幾びと、他人や世間の引用無しで自分の主張を形成できている日本人が、オピニオンリーダーを任ずる人々の中にもいるのだろうか。他の引用は、緻密に形成された自己主張がじぶんの内で固まってから、その照応としてであって、ほらみてよ、と、じぶんの感情を支えるためではない。そういう幼稚さが、学問を積んだ思想研究者にもみられるのであれば、それこそ個々人をこえた日本の意識空間の問題である。言っておくが、ぼくには無縁の空間である。ぼくはじぶんの孤独を感じるのみである。