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___

 

(24頁)

 

 

第一主部

 

交わりと歴史性における私自身

 

 

第二章

 

私自身

 

 

思惟可能なものの限界に面する私 (26頁)

1.自我一般 — 2.自我の諸相 — 3.性格 — 4.思惟可能なものにおいて私はひとつの全体としての私を確信するのではない

 

自己反省 (35頁)

1.自我存在と自己反省 — 2.溶解させる自己反省 — 3.自己反省と根源的直接性 — 4.自己欠落と自己被贈

 

自己存在の二律背反の諸々 (45頁)

1.『私は在る』ということの経験的な意味と実存的な意味 — 2.自己克服における自己生成 — 3.世界の内で超越者を前にする自己存在

 

 

 

 自然な無頓着さにおいては、私は自分について問うことはない。私は、自分にとって最も身近な諸目的を実現し、自分の諸課題のことを考えるだけである。なるほど私は『私』と言うが、どのような意味において私であるのか、気に懸けることはない。

 その後、私は、私は問うことができるのを経験する。私は、私とはであるのか、知りたいと思う — そして人間を存在の類として思惟し、この類に私も属しているのだと考える — あるいは、私はであるかを知ろうとし — このことによって、私が「私自身」と言うとき、私は何を思念しているのであるか、と問う。

 この二つの問いを私は、偶々立てるのではない。世界の内で私に既に現われ、更に現われるであろう、無数の事物にたいしてと同様であるかのようには、私はこの二つの問いにたいして、ただ関心を持つのではない。この問う営為をもって、私はただ詮索的に知りたがっているのではなく、私はこの問う営為と本来的に関与し合っているのである。私は無頓着さから目覚めるのである。

 私は子供として無頓着だった。しかし、そのために、私自身の平衡状態にもなかった。わたしの自己意識は鈍くて、自分を見いだす力が無く、そのためにむら気だった。私が混乱していた時期、(25頁)私を秩序づけていたのは両親であって、私ではなかった。私は素朴な現存在意識に生きていたのであり、まだ、決然とした自我を持ってはいなかったが、しかしそれでも、可能的な自我として生きていた。まだ自己反省を欠いていたが、すでに、「私」を言う存在者として生きていたのである。私は、なるほど、不安になったり、一時的に途方に暮れたりするときはあったが、絶望を知ってはいなかった。様々な激情に動かされては、忘れっぽく、ひとつの気分から他の気分へと移っていった。

 その後、私は目覚めたが、それは単なる思想によってではなく、状況のなかで揺り動かされることによってであった。その動揺によって私は、根底的に当惑させられ、何ごとかが決定的に私に懸っているのだという要請を感じたのである。

 私が既に、拡張された世界知と実際的な有能さを身に付けていることは、可能なことである。それでも、本来的な覚醒は全く欠如していることは、ありうるし、この本来的な覚醒が早々に再び自らを引っ込ませてしまうことも、ありうる。「私は何であるのか」、という問いの前に立たされて、私はよく、こう思う、「それは世界で最も自明なものだ」、と。このような答えは、素朴な当惑や、逃避を意味することがある。人は、何かについては熟慮することを欲しないものだ。しかしこの答えは、本質的な意味をも持ち得るのである。すなわち、ここで問題となっているものは、もし私がそれを理解するならば、私はそれをただ私自身によってのみ理解するような何かなのである。私でない他のものによってそれを理解するのではない。

 とはいえ、この自明なものは何であるかを、私が自分にたいして答えようとするならば、私は驚かされてしまう。私はこの自明なものを知らない、ということを、私は見るからである。私自身の存在のための言葉をまだ持たないまま、私は、この存在を私に明らかにする様々な路を探求するのである。

 私は、私自身を根源的に覚知すること〔Innewerden〕へと立ち返る。この覚知は何かについての意識としてではなく、見たところでは現実的な顕現として、私を無反省に充実させた。この覚知のなかにはあらゆる内実が存するように見えたのである。私はただ手を出して摑めばよいのだ。そうすれば、私を私自身として事実的に生気づかせていたものが、意識されるであろう。ところがこの宝物は、私が手に取ると同時に消えてしまうのである。私が自分の根源性を問うことによって、その根源性の暗闇から、私は去ってしまったからである。どういうことかというと、その暗闇のなかで私自身の覚知を照らすものだと思われた光は、私がその光で、存在するものを眺め見ようとするや否や、〔その光は〕即座に消えてしまう、ということなのである。こうして私に明らかとなることは、私は単に暗闇を去ったのではなく、根源そのものを去ったのだということ、たぶん現実に窮極的にではないであろうが、意識としては、根源を摑み取るか取り逃がすかの可能性とともに、根源を去ったということ、このことが私に明らかとなるのである。まさにこのこと、すなわち、私は私を問わざるを得ないということは、私は根源から歩み出たということを、私に示すものなのである。私は私にとって自明なものではなく、喪失したと憶測されているものへ退却して私を見いだすのでは更になく、私は、前進して行って私自身を摑み取るという課題をこそ、感じるのである。

 

(26頁)

 

思惟可能なものの限界に面する私

 

1.自我一般。— そのようにして否定的な明晰さへ至ると、私は自分を意識としての私へ向ける。すなわち、私は自分を『自我(Ich)一般』として捉えることを欲する、というわけである。

 自我は、自己自身を捉える存在である。自我は、自己へ指し向けられているものとして自分を意識している。つまり、自我は、同時に二つのものである一つのもの、区別されてはいるが依然として一つのものであるに留まる二つのものなのである。自我は、自分自身を客観にする主観である。客観としては、自我は自分に与えられている。しかしその与えられ方は、世界の諸事物が疎遠な他物として与えられているようにではなく、「与えられていること」を自我存在として再び取り止める(aufheben)ような、唯一無比の仕方においてなのである。この自我は、自分自身の「主観-客観-分裂」においてある。しかし世界の諸事物に対峙するように根本的な分離においてあるのではなく、また、いま言われた「分裂」を自我が単に神秘的に一つにするという意味での揚棄(Aufhebung)においてあるのでもない。自我は自分が、自分自身においてひとつの円環状態にあることを、意識しているのである。

 この自我は、自らをただ『私は考える』としてのみ捉える。この『私は考える』は、あらゆる自我意識の核を成すものである。あらゆる他のものが移り変わることがあっても、『私は考える』はそのままでありつづけねばならないかぎり、そういう核を成す。『私は考える』において自我は自らを自己と同一なるものとして捉える。すなわち、現在の瞬間において一なるものであり、時間系列の過去あるいは思惟される未来を通じて一なるものであるものとして、捉えるのである。

 自我は自らを、自我ではない他のものとの関連においてのみ捉える。すなわち、他のものがその内にある世界との関連においてのみ自らを捉えるのである。この世界の内で諸事物が自我によって知覚され思惟されるかぎり、自我は、この世界に対峙して、主観であり、この主観にとって、あらゆる他のものは客観の諸々なのである。この自我はそういうものとして、主観一般なのであり、あらゆる他の主観によって代替され得る、正真正銘のただの意識であり、あらゆる知られ得るものがそれに関係づけられる「点」としての悟性である。この悟性自体は単なる「点」として、ただそう呼ばれはするが、自らはもはや客観とはならず、むしろこの悟性にとっては、あらゆる具体的な自我存在もまた客観なのである。このような形式的な主観一般は、存在が意識として在るところでは何処でも、「包み越える(übergreifend)一般的なもの」として現前しているのである。

 『私は考える』としての自我は、思惟の瞬間において、自らの世界内での自らの現存在を自分で確信している。自我は、自分がであるかを知っているわけではないが、自分が自らに現前している時間において在ることを知っている。—

 私はそのような『私一般』であることは、いまや事実である。私は、そこにおいてあらゆる他の自我と一致することを、疑わない。しかし私はただ『私一般』であるのではなく、私自身なのである。自我一般の諸構造において、私は、私の現存在の諸条件を、私が自分に現象するときは私はその中にあるところの諸形式として、認識する。しかし私は自分を(27頁)既に当の諸形式において私自身として認識するのではない。私は『私は考える』であるが、しかし私自身が『私は考える』なのではない。私が『私は考える』であるのはただ「一般」(überhaupt)としてなのであるから。なるほど私はそこでは自分と同一であるが、この同一性はただ、単なる「私は自我である」という空虚な形式でしかない。私は自分を、私が空っぽになった点のような主観として、その形式のなかで措定しているのである。この形式は、内実も無く、ただ私の意識を、倍化しても一つであるものとして言表しているだけである。

 対象性の意味から見られた場合の、自我[Ich]存在の比類無い特徴は、言語の中に反映している。『私[ich]』とは、代名詞であり、ひとつの言語形式である。この言語形式において、対象であることなく「私」を言う存在の唯一性が、表現を求めているのである。これに対して、我々がここで語ってきた『自我なるもの[Das Ich]』は、人為的で、言語に違約した名詞形成なのである。こうして形成された名詞は、哲学的思惟において慣用的となり、「自我」を客観存在として架空的に可能にするのである。このような名詞形成は、我々が語るすべてのものを、たとえそれが決して適切には対象とはならない場合でも、対象にしてしまわざるをえないという、この不可避性から、結果するものなのである。

 2.自我の諸相。 — 私は、自我意識において意識一般としては、私をまだ見いだしていないので、私は自分の自我存在の物質的充実へと、この現存在として向かう。私は単に、私は自分を意識しているということを見るのみならず、いかなるものとして私は自分に意識されているかを問う。私は私自身にとって、時間・空間の内で内容的に充たされた、取り違えようのない生命である。この私である生命は、私の面前に、対象となりつつ歩み出てくる。私自身の諸相としてのそのような諸々の対象性において、私は自分にとって鏡に映るように意識される。いかなる相においても私は自分を完全に見ることはなく、部分的に見るのである。私は、私の存在の諸側面を発見し、部分的にはそれらの側面と私を同一視するが、それらにおいて自分と完全に同一となることはない。というのは、事実性としてのそのような諸々の対象性において私が自分にとって何であろうとも、それら事実性に対峙して、可能性ではあるゆえに実際にも生成し得たであろうものの意識が、残存しているからである。このような諸々の対象性は、私の可能性の実現された現象であるから、これらの対象性を自我諸相[Ichaspekte]と呼ぶ。この自我諸相の典型的な諸形態は、自我図式[Ichschemata]として性格づけられる。すなわち。

 a)私が『私』と言うとき、私は自分を身体として思念している。この身体は、空間の中に現存している。私がこの身体を動かす時、この身体は動くのである。あるいは、ひとつの力がこの身体を動かす。そのとき、私は、あらゆる場合においてこの諸々の運動を経験しなければならないところの者である。私は、身体を通してのみ活動することができるが、その分、身体と遭遇するものを堪えなければならない。私は身体である、あるいはむしろ、私は身体と一つである。私は、自分の肉体生命を意識するがままに、自分を感じるのであり、力強く感じたり、弱々しく感じたり、生命の歓喜にあったり、不機嫌にあったり、活動的に働いていたり、休息状態にあったり、享楽していたり苦しんでいたりする自分を感じるのである。

(28頁)

 そのようにあるのが、無頓着な現存在の状態であり、ここでは私ははっきりとした意識があるのではない。しかし私が、私とは何であるかと問い、自分のことにはっきりと思いを向けるようになると、私の身体的自我意識は、私の配慮の対象となる。私は自分をひとつの独特な現存在として知る。この現存在は私特有の身体形態に応じており、その大きさ、力、運動の仕方に応じている。また私は、自分があらゆる種類の変化に揺さぶられるものであることを知る。それら変化を私の身体は、様々な状況、病気、性別、年齢によって経験するのである。私の身体性がそのようにあるのを私が見るとき、私は自分を、この身体性を見ているかぎりにおいては、たしかに分離しているように思われる。だが私はそれでも、この身体性と一つであり続けているのである。しかしこの「一つであること」は、「同一であること」ではない。私は私の身体ではないのである。

 私が私の身体自我[Körperich]であるならば、それでもいかなる身体部分も本質的には私に属さないということは、奇妙なことである。私は手足や、個々の器官、それどころか脳の一部さえ、失うことがあるが、私は私であり続けるのである。なるほど私の状況は、そのことによって別のものにさせられるかもしれない。様々な損傷によって別の生活条件に移されても、私はやはり本質的には同じ私であったのである。ただ、肉体の破壊によって私の意識が止み、または様々な変容によってかき乱されて、私の方向づけや記憶が消失し、交わりが不可能になり、感覚の錯誤や狂気が私を完全に支配する場合にのみ、私はもはや自分ではない。しかし、私が、この「もはやない」であるのは、私自身にとってではなく、観察する者にとってである。私が現存在するかぎり、私自身は、どんなに私の肉体に結合されたままでも、同時に肉体に対峙しているのである。破壊されるという渦のなかでも尚、精神錯乱のなかでも尚、私は、自己同一的であった私の点のような可能性であるのである。私が肉体を私に属するものとして捉えるのは、肉体が私の本質に貫かれているからであり、私は、負担であり阻害要因であるこの肉体に対峙しつつ、私の本質を執拗に迫るのである。どんな場合でも私は肉体を本来的な意味において私自身として取ることはない。肉体は、私を時間の中で担っていたように、時間の中での現存在としての私を破滅させるだろう。

 私の身体は自分の素材を絶え間なく新しくする。身体の物質は交換されるが、私は同じ私であり続ける。私は身体としては生命であり、生命は形態と機能として、特定のこの常に変化する肉体の持続性である。私は私の生命を欲し、この生命なくしては私は現存在しない。私はこの生命の生物的諸機能のなかに現前しているが、私はこの諸機能として存在しているのではない。私が単に生命であれば、私は単にひとつの自然事象であるだろう。私が、完全に生命であることを欲しようと試みるならば、私は人間として、私は動物となることはできないという経験をすることになる。動物とは、ひとつの破られることのない現存在であり、自らの本質が分裂することはなく、それゆえ、可能性というものもないまま、動物であるところのものなのである。人間は、(29頁)自らによってのみ自己であり得るか、そうでなければ、自らの自己存在を単なる生命のなかで放棄して、すさんでしまわざるをえないかである。というのは、生命は可能性を保持してはいるが、その可能性を破滅させようと付け狙う者もいるからである。単なる生命は遂行不可能である。人間に生命は諸々の条件で結びついている。これら条件は単に生命から来るのみならず、人間自身から来るのである。すなわち、この場合の条件とは諸々の決断のことであり、これら決断を人間は内面的行為において下し、それから現実の中での行為において遂行するのである。生物性と人間の自己存在との、このような分裂は、人間が生物性を諸々の条件の下に置くことによるのであるが、この分裂は、人間にとって、生物性との合一と同様に、必然的なものなのである。というのは、この分裂が意味することは、人間は自らの時間的自己意識の憲法に相当するものを知っている、ということなのである。このいわゆる憲法とは、人間は自らの肉体的現存在を、肉体的なものとしては耐え忍び、かつ統制しなければならない、というものである。しかし生物性との合一が意味することは、人間の生物性あるいは生命性が人間の自己存在の充実となる場合にこそ、人間は本来的に生きている、ということである。その場合にこそ人間は自分自身として、自分の肉体的現存在をも愛するのである。どんなにしばしば人間は自分の肉体的現存在を疑問なものと見做さざるをえず、これをまるで他者のように扱わねばならないにしてもである(1)。

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 1 肉体の復活は、それ自体は慰めにならない思想であるが、身体性と本来的自己存在の諸条件との可能的合一〔一致:Einheit〕の神々しい変容という理念によって、ひとつの真の象徴であり得るものである。この場合、本来的自己存在は、死後に、我々の現存在経験にとっては表象不可能な仕方で、身体性と同一化したのである。

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 だが、私が私の身体と関わり合い、身体に、基準と、諸条件の下でではあるが身体自体の自由を賦与するかぎり、そこにおいて同時に私は、ますます決定的に私を、身体性そのものの中にあるものとして意識する。これは、身体性が私の手中にあるということである。私は、私を殺すことができるのであり、それによって私に向かって、私は私の身体性を私自身であるとは承認していないことを、証明することができるのである。身体性を殺し、この身体性はただ受動的に死に得るのみである。しかし私は問うことができる、私自身はそのことによって完全に無となるのか、と。

 b) 私は、社会生活の関連の中で私がどういうものとして通用しているのか、と、自分を思念する。職業における私の働き、私の諸々の権利と義務が、私にたいして、私の存在として押しつけられる。他の人々に及ぼす私の効果が、私の本質像を生じさせる。この像は、私に投げ返されて、知らず知らずに、私の前にせり出されてくる。こうして私は自分を、他の人々にとって私がそうであるところのものなのだと思念するようになる。各人は、身体であってのみ存在するように、社会のなかに在ってのみ存在する。たとえ、社会を離れた次元では社会と対立していようとも。我々の「社会的自我」が我々を支配しているのである、あたかも人間が、自らの社会上の位置および自らの関わり合う人間たちとが様々に変化するに伴って、自らの本質をも変化させるかのように思われるほどに。原初的な事態となった場合、人間は完全に自らの存在意識を失うことがある。その場合、人間はもはや人間そのものではあり得ない。ある一撃によって、人間がそれとして存在していたものが、人間から奪われたからである。

(30頁)

 しかし社会的自我としては私は私自身ではない。私が私の世界から引きちぎられても、私は無の中に没し去る必要はない。私はまだ、破局においても私自身に覚醒する可能性がある。たとえそれが、まだはっきりしない、ただ可能であるだけの自己に向かってであろうとも。

 私は社会的自我としては何であり、どのような範域において社会的自我として在るのであるか、ということは、私の生と社会との廃棄できない連結のなかで、私に刻印されるものである。私は、特定のこの居場所において、特定のこの歴史的特殊性である。すなわち私は、私の世界の一の現存在なのであり、特定のこの関連においてすべての者が私をそれであると見做すところのものなのである。それどころか、合理化された社会においては、特殊なものの実体性は、いよいよもって打ち捨てられ、極端な場合には、私の規定的現存在の内実の意識が、特定のこの国家という全体の歴史的意味への信仰と一緒に、解消されるまでに到るのである。なにものも、社会的現存在ただそれだけのものとして在るのではなく、私は、この社会的現存在において権利と義務とを有するものとして在るのである。すべての人々は原理的に他の人々と同様、せいぜいのところ一事例なのであり、そのようなものとして、同じ仕方で、諸々の社会的可能性に、供給、労働、享受に、参加すべきなのである。特定のこの社会的自我[dieses soziale Ich]として、私は我々全員となるのである。

 それゆえ、私の社会的自我が私に押しつけられても、私はやはり内面的には、この自我に対して私を護ろうとすることがある。私が容赦なく私の社会的現存在に繋がれており、この現存在において私の自己意識を、私の活動性を鏡にして保持しているとしても、私はやはりまだこの現存在に対峙して、私を再度私自身として立てることができる。社会上の獲得や喪失がどうあれ、私はそういういっさいの変化のなかで私自身であり続けることが出来るのである。私はもはや、私の社会的自我と一致することはない。私があらゆる瞬間に、同時にこの社会的自我において在るとしても。今や私は、私の社会的現存在において、いわば役割の意識を持つことが出来るのであり、この役割を私は摑み取るか耐え忍ぶかするのである。私と私の役割とは、私にとって互いに分離している。なるほど、私が自分を本来的に存在していると知るのは、ただ、私が自分の役割を無制約的なエネルギーで摑み取り、活動的に現存在の中に介入する場合のみである。しかし、私が身体として現存在することをやめないのと同様に、私がそれであることをやめない私の社会的自我は、私自身にとって対象となるものであり、私は同時に、この対象となることから私を引き留めもするのである。私は社会学的状況から生じる結果ではない。なぜなら、私がどんなに、私から出て客観的に現象の中に歩み入るすべてのものにおいて、私の社会学的現存在によって規定されていようとも、私は、私の根源からして私自身の可能性であり続けるからである。私は、物質的に現存在するためにのみ、私の役割を摑み取ろうと欲するのではなく、私自身となるためにも、そうしようと欲するのである。私は自分を私の役割においてのみ知るが、だからといって、私はこの役割と同一であるのではない。

(31頁) 

 先に述べた、社会的自我の『我々全員』への希釈化においては、この「我々全員」が一般性による優勢にものをいわせて自らを押しつけようと奮闘するのであるが、これに対して自己存在が決意性をもって抵抗し、自らの優越を要求する場合、自己存在の無制約性が、「我々全員」としての存在のあらゆる制約性に抗して立ち上がっているのである。私は、なるほど、万人との並存・共存関係において生活しており、相互奉仕関係のなかで様々な働きを果たしている。だが私は、個々の人間というものを知っており、この個々の彼らとは、私はただそのような社会的関係においてのみ在るのではなく、無制約的に結びついているのである。私は、この個々の彼らとは、私自身として交わりのなかに立っているのであり、私はこのような彼らを、他の、彼らと比すればどうでもよい人々と一緒にして、同じ世界の中に置くことなど出来ないのである。私は、彼らと共に在る自己存在を、万人とともにある存在などに譲り渡すにまかせることは出来ず、私は、可能性に拠るなら、彼らと共に、万人の外に立つのである。

 c) 社会において私は、私が上げる業績であるところのものによって、価値を持つ。私が上げる業績は、私にとって、私であるところのものの新たな鏡なのである。私によって生じたもの、私が成果や仕事として見ることができるもの、あるいは、失敗や不出来として私の目の前に出てくるもの、それらのものにおいて私は自分にとって、ある固有の仕方で対象的なものとなるのである。業績我[Leistungsich]において、自我意識は、上げられた業績の意識と一つになり得るのである。

 だが、私は、私が業績とするところのものではない。それどころか私は、業績のために、反対のものに陥ることがある。我々は、我々の作った諸事物に依存するようになるので、我々はその諸事物と対立することになるのである。我々はその諸事物において在るのであるが、単に業績を作る者としての我々と同一であるのではない。他の者たちが、我々の創造したものを模造したり、その口真似をしたりする場合、その或る者は、かつて自分の仕事にはまり込んでいたその者自身の自己と対立して戦うようにもなる。私は、かつて成し遂げた業績を、私とは分離された業績にしてしまうのである。私は、その業績に、私が依然それであり得るようなものとして、立ち止まることも出来なければ、私は私が今業績にしようとしているところのものだ、と言うことも出来ない。なぜなら、どんな時でも、私であるところのものと、私が業績にしようと欲しているところのものは、一つになってはいても、同一ではないからである。私は、いかにも業績を作ることはできるが、そこに私はいないのである。いかなる場合でも、私は、私が業績とするところのものをもっては、汲み尽くされていないのである。私自身というものは、自分の作品との同一視を避けるものである、— それら作品を相対的には自分のものとして承認しながらも、そして、自分への忠実から、それらを我がものとして守りながらも — 、しかしそれら作品が私を私自身から奪うように見える程、そして私が将来というものを感じ、可能性と、私が自分にとっての私を確信し得るようなものを、ありありと前にする程、私自身は、ますますいっそう、そのような同一視を避けるのである。

 d) 最後に、私は、私であるところのものを、私の過去を通して知る。私が体験したもの、私が見たもの、私が為し、考えたもの、私が人から受けた被害、私が助けられた仕方、これらすべてのことが、知らないうちに、あるいは、意識的に想起されることで、私の現在の自我意識を規定する(32頁)。ここから、私は自分にたいして尊敬の念や軽蔑の念を懐き、様々な愛着心や嫌悪感によって動かされる。過去に基づいて、現在のものが私に語り掛けるのであり、この現在のものを私は、それゆえに避けたり求めたりするのである。このような想起我[Erinnerungsich]は、無反省な状態においては吟味されることもなく、他の自我諸相と同様に、限界規定は曖昧なまま、私にとって対象的なものとなる。私の過去は私の鏡となる。私は、私がそれであったところのものなのである。

 すべては他のようにもあり得たであろうという考えによって、私が自分を、あらゆる嘗て存在したものから分離しようと試みるならば、私は自分をひとつの空虚な可能性に変じ帰すことになり、私の過去という根拠を欠いているので、私はもはや存在しないことになる。だが、このような分離の可能性は、私が私の想起するものの全体と同一なのではない、ということをも意味するのである。というもの、私は現在に存在しているのであり、未来があるからである。仮にも私が、私の過去について私が持っている像と私とを同一視するならば、私は自分を失うことになるだろう。私は自分のために私の過去を、私がそうでありたいひとつの図式に構成し、基準としての私の過去の許に、現在と将来を置き、そのことによって現在と将来の価値を下げるのである。私は、私がなるところのものではなく、私は自分を、過去の私がそれだと私が見做すところのものであると思うので、その結果、私は現在と将来をすでに、過去であるかのように思惟するのである。

 たしかに、想起の行為によって、私の本質の持続性と、そしてこの持続性を通してのみ、私の本質の実体が、私にとって可視的となるのではある。自己にとっての基準は、現在に作用する想起の深みである。だが、想起において私は、もっぱら私にのみ現象するのである。想起は固定化した客観として私自身なのではない。というのは、想起は、私が生きる長さに応じて、作用しつつも同時に変化するからである。私の本来的自己のあらゆる瞬間は、想起を通して規定されながらも、同時に想起に対峙するものである。私の本来的自己の瞬間は、想起の意味と意義を、現在の生の決断に基づいて、あらためて展開したり縮小したりすることができる。それどころか、本来的な忠実に基づいて、その意味を変えることもできるのである。— 

 私とは何であるかを、私が知ろうと欲するとき、私が様々に試みる思想行程のなかで、これまで見てきたような、図式化された私の客観的現存在が、私の存在であるとして供される。私が自分をこのような現存在において捉えても、いつでも、私は完全にそれではない、という経験を、私はすることになる。すなわち、そのように客観となったものは、私自身との絶対的同一性には至らないのである。というのは、私は、包み越える[übergreifend]ものであるからであり、そうでなければ私は自分を、そのような諸々の図式のなかで喪失してしまわざるを得ないだろう。

 3.性格。— つぎのような私に関して、私とは何であるか、と私は問う、すなわち、私自身の現象において私の根底に存する(33頁)存在[ein mir zugrunde liegendes Sein]であるような私に関して。このような私の存在は、私にとって存在するものであるか、あるいはこの存在それ自体でありかつ私にとって存在するようなものなのである。というのは、私はなるほど私の諸々の現象において私に与えられているのであるが、それらの現象において私に与えられているものは、私が私自身としてそれであるところのものだからである。このゆえに、私はなるほど、私が私自身として何であって如何に存在するかを、いかなる直接的な仕方でも知ることはないが、しかし私は、私の存在を、あらゆる私の現象の根底に存するものとして、推量はするのである。つぎのことは、私の根源的な経験の一つである。すなわち、私は単に現存在しているのでもなく、また単に、私がそれであるかもしれないあらゆるものの可能性であるのでもないということ、そうではなく、私は自分に、ひとつの既在[Sosein]として与えられてもいるのであるということ、である。感嘆と羞恥をもって、驚愕あるいは愛を伴って、私は自分の行動から、私が如何に在るかを経験する。私は咄嗟の思慮で、よく自分に言うことがある、「そう、それがお前だ![also so bist du !]」、と。私は日々、自分が、絶対的には私の意のままにはならない私自身の存在に依存していることを、経験する。この存在と私はつき合い、この存在を指導し、促し、阻む。この存在は、所与となるかぎりで、私にとって意味深い仕方で心理学的に研究可能な対象となり、そういう意味において、私が私自身として[an mir selbst]それであるところの存在となるのである。この存在は、私の生の経路のなかで現象してゆく。この存在が、すなわち、私の性格[Charakter]なのである。

 さて、私が私自身として、私はともかくもそういうものなのだ[ich bin nun einmal so]、と肯定的に言うことのできるこの存在は、だからといって私の外部の諸事物のように私に与えられているのでもない。この外部の諸事物は、端的に他なるものであり、それ自体が私にとって現存しているのではないが、私は私自身として[an mir selbst]、問題となっている存在なのである。この存在は行動し、行動することによって存在し、自らにとって現象するのであるが、同時に自らがその存在であることを、自らの自由において初めて覚知[innewerden]し得るような存在として、現象するのである。このゆえに、私を完全に既在の与えられたものとして承認することに対しては、私の内において、何ものかが逆らうのである。どういうことかというと、私が既在のものであるという事実[daß ich so bin]を、私は私にとって負い目[Schuld]にさえしてしまう、ということである。たとえ私が、この私の既在を現在の意志によってまさに別のものにすべき仕方を知らないにしても、それでも、私の自由を、私はただ技術的な介入としての瞬間的な悟性的目的行為においてのみ確信しているのではない。私の自由は、私の内にひじょうに深く存しているので、私の知にとってはもはや俯瞰できない量の行為の継続を通しての生が、私の現在の既在において、私から発生したものとして自らに現象するのである。そして、生まれながらにして私がそれであるものが、あたかも私が時間に先立つ選択によってこの生得的既在をそのように欲したかのように、それゆえ私はこの既在にたいして責任がある[schuldig]かのように、私にとって現象し得るのである。私は、私にとって所与のようである私の自体的存在からさえも私を取り戻すのであり、そしてこの所与的私に基づいて、あるいはこの所与的私に抗して、私自身を摑み取るのである。

 4.思惟可能なものにおいて私は自らをひとつの全体として確信するのではない。— 私は何であるか、という問いにたいし、三度、応答が為された。三様の意味において私は『私』と言っているが、各々の意味はすべて、自我存在の一様態のことだけであったのであり、本来的に私自身のことであったのではない。

(34頁)

 私は意識一般である。というのも、あらゆる他の意識と同様に、私は悟性的に思惟し、普遍妥当的なものを理解して承認することができるのであるから。私がこのような意識一般であり、ここにおいて非個人的であることは、私にひとつの特殊な威厳を与える。意識一般なくしては、私は私自身であり得ないであろう。

 私は、充実したものとしての自我諸相において、私の現存在の現実であり、此処と今をもつこの具体的な個人である。このような自我諸相においての外は、私はそもそも現象し得ないであろう。

 私は、私の性格としての既在において、相対的に存続的なものである。そのようなものとして、私は私に与えられており、それは、なるほどただ思惟され推量されるだけのものではあるが、私が私を認識するかぎり、私の現象の根拠として不可避的に前提されるものである。この既在なくしては、私には現存在におけるあらゆる安定性が欠けているであろう。

 私であるところのものは、ゆえに、私にとって全体性となることはない。自我存在一般、私の諸相、性格としての私の既在、これらにおいて私は諸々の限界にぶち当たる。しかし、そこにおいて私が自分を私にとって対象的にしようとするところの、これらの不可避的な着想は、間接的に、ひとつの明晰性へ通じるものである。まず第一に、私は更に他のものであるということを示す、その時その時の未完結性に気づくことによって。次に、その時々に思惟されたものを私自身から排除することによって。すなわち、私自身である私は、対象性を通して開明されつつも、あらゆる対象性から再び、自分をとり戻すのである。こうして、私に関する[um]間接的な知が生じるが、むろんこの知は私[von]知なのではない。自己というものは、あらゆる可知的なものより以上のものである。このゆえに、私が私にとって客観となるような諸々の路の途上で、私は私自身をひとつの可能性として非客観的に確信することが出来るのである。なるほど、客観となったものは、いわば、それを通して私が存在するところの唯一の言葉である。しかし、この言葉を、真摯に『私自身』を言うことのできる私の能動的な意識こそが、摑み取るのであり、その際、私のこの意識は、同時に、自ずから現象となる種類のあらゆる対象性を相対化しているのである。

 時間現存在において、私が、先取りする思惟で、私を自分にとってひとつの像における全体とし、この像において私であるところのものを通して、私が誰であるかを知ろうとするなら、私は自分を欺いているのである。たしかに、実存開明によって更に摑み取られるべき諸根源に基づいて初めて生じ得るところの、形而上的な超越行為においてのみ、私は、時間現存在の完成としての私の存在へと、あたかも私の知が永遠におけるものであるかのように、自分を方向づける。しかし、私のあらゆる完成像に面と向き合って、時間における事実的な完成不可能性こそが、私には確かなものとなる。このことを通して初めて本来的に目覚めるのが、「私自身であり得る」という、私の可能性の意識である。この意識によって私は自分を、むしろこちらのほうが不確かである存在として(35頁)ではなく、生成と未来として知るのである。形而上的な超越行為において私を確認することは、ひとつの飛躍によって生じるが、この飛躍は、もうひとつの飛躍を前提としている。すなわち、私が私にとって対象的なものとなることから、自由としての私への、飛躍を前提としているのである。私から発して現実となったあらゆるものに対峙して、可能性としての私自身が依然あり続けている。つまり、客観となった自我存立[Ichbestand]に対峙して、私自身があり続けており、そのことによって私が自由としてあり続けているのである。

 私にとって対象となることはない私自身が、単に、これにとって諸対象のあらゆる現存在があり、この諸対象については知り得るが、自分については知り得ないところの存在でしかなく、そして自らは、この現存在世界そのもののなかでは、やはり消え去るものであるような、そういう存在であるとするなら、私は、ひとつの状況[Situation]の内にあることになり、この状況に私は耐えねばならないが、この状況を克服することはできないのである。このような状況は、表象されたものになると、本来的自己存在の哲学的開明の根源となる。もはや私は、失望して私についての対象的知の更なる諸可能性に向かう、ということはできない。もはやそのようなことをするのではなく、そのような知の諸可能性すべてを摑み取った後では私は、その諸可能性を媒介として、自己存在の可能性の新たな基盤へと歩を進めるのである。

 

 

自己反省

 

 1.自我存在と自己反省。― 意識一般である自我存在から、また、そこにおいて私が自分に経験的に現象する豊富な様相から、そして、私の性格という所与的既在から、帰還するところに、私自身にたいして態度をとるということ[ein Verhalten zu mir selbst]があり、ここに、新たな、私自身を摑み取る行為の、始まりがある。私は、即事象的な客観性のなかに、私とは何であるかを調べても、常に個別的な諸事態を豊富に見いだすにすぎない。だが私は、そのような諸事態を超え出て、私は本来的には何であるのかを吟味するのであり、そして、この本来的に私であるものは、なお私自身次第である[noch an mir selbst liegt]ことに、気づくのである。私は、自分のことを気に懸ける存在であり、自分にたいして態度をとる[Sichverhalten]ことによって、この存在が何であるかを、更に決断する存在なのである。

 私が、客観性へのあらゆる努力をして外に逸れた後で、『私自身』を言う場合、私はもはや単に或る何かを思念するのではなく、何かを為すのである。すなわち、私は一であると同時に二であって、自分に対しているのである。換言すれば、私は自分を自分に関わらせるのであり、しかも単に自分を考察するのではなく、自分に働きかけるのである。そこでつぎのような問いが生じる、すなわち、私はただ、私の内的な行為によって、自分を知り得るだけなのであるか、私はそれによって、ただ自らに現象するだけのものではなく、自らを創造するものでもあるのであるか、という問いである。この問いは、然りと否とによって答えられねばならないだろう。つまり、私が欲さないのであれば、私は私自身であることは出来ないが、私が私自身であることを欲するからといって、私は既に私自身であるというのでもないのである。なるほど、私が生成するのは、(36頁)私が自分を創造することによってである。しかし、私が私自身である場合、私が自分を創造したのではないのである。私が自分にたいして態度をとるということは、既に私自身であることを意味するのではなく、ひとつの内的な行為において私を期待することを意味するのである。このような、自己存在の根源としての、自己が自己自身にたいして態度をとるということの、本質においては、対象的となるようなひとつの存立においての私の自分との同一性の可能性は、根本において無効になっているのである。私は、自分に能動的に態度をとることの故に、ただ、自己存在の可能性ではあるのである。それ故に、私は、時間においては自分にとって決して完結や完成ではない。それ故に、私は私自身を知るのではなく、私が私自身であることによって、私は自分にとってただ確信されるものであるのみなのである。

 たとえば私が、私を知る直接的な仕方に固執したまま、「私の意志によっては私は存在し得ず、私は実際には、私が意識一般として、私の経験的諸現象として、私の性格として、確定するところのものでのみあるのだ」、と言うとするなら、つぎのように問われねばならない、すなわち、私がそのような言をほんとうに信じるのであれば、どのように私は生きることになるのであるか?と。なるがままの私の快と傾向性に生きるのか、あるいは、それは無意味であるというので、絶望に生きるのか。両方とも筋が通っていないのである。第一に、ほんとうに無意味に生きることは、私には一瞬たりともできない。つまり、偶然の傾向性と快に生きることが既に、それ自体、ひとつの決断なのである。ひとつの既在を言い張ることには、同時に意志行為が存しており、この意志行為が無意味な生を摑み取っているのであって、この意志行為こそが、不可避的に、—消極的ではあっても—ひとつの意味なのである。この当の意味に関して、可能的実存から問いが発せられつづけている。すなわち、このような消極的意味を私はほんとうに欲しているのであるか、むしろ自分を欺いて、私を私にたいして隠しているのではないか、という問いである。この場合、どうなるかというと、絶望が私を自殺へと追いやるのである。自殺によって私はこう言っているのである、「私の生は無意味である。しかし私は、私の生が意味を持つことを欲する。なぜなら私は無意味さの中では私自身であることが出来ないからだ」、と。自殺が、能動的行為として、消極的に現存在を充実させる意味となるのである。自殺はひとつの決断であり、この決断の中には、消極的ではあっても本来的な、ひとつの自己存在が存している。自己存在というものが今や初めて始まるのかもしれず、この自己存在が自殺を、超越しつつ再び永遠の中で解消するのかもしれない。— 人間の本質と状況は、意味を問わずにはいられず、有意味に行為せずにはいられない、ということである。すると、人間にまだ残っているのは選択のみである。だが、人間はそもそも選択しないということは出来ないのである。なぜなら、常に繰りかえし繰りかえし、ひとつの選択があるからであり、この選択を人間は能動的にも受動的にも遂行しているからである。人間が一貫性というものを欲するなら、人間は、意味を端的に知らなくとも、意味を問い、不断に、自らの力に応じて、意味を実現することを、やめることは出来ない。人間は、自分を助けて自分を獲得させることを、するかしないかする存在であり、このことは、人間が自らの可能性を浪費するか摑み取るかによるのである。しかし人間が、いかなる一貫性も欲さないのなら、これは再び、消極的な意味意志であろう。人間は、これによって、有意味に行為することをやめざるを得ず、もはや自らの意見表明などしてはならないことになろう。人間は一切を折り砕き、(37頁)いわば意図的に狂人の状態であろう。まだ意味の切れ端でも自分の現存在に現われるかぎりは。

 自己が自己に対して態度をとる〔自己が自己に関係する〕[Sichzusichverhalten]ことにおける自己意識としての主観は、先行する諸々の詳論では、自我を対象的に存立させることによっては常に消え去ってしまうような対象であった。ところが、いま言表された、自己の自己への態度〔関係〕は、主観性一般という一般的なものに解されるなら、空虚なものであろう。いま問題である、自己の自己への関わりは、ただ、個々の単独的な〕[einzeln]自己存在の、自己への態度としてのみ、問題となっているのである。この自己存在の充実を私は諸々の能動的行為の遂行において求めているのであり、これらの行為の遂行は、その歴史的具体性において、私自身なのである。 

 私が気づくのは、私は、自分を自分で制御できる場合にのみ、私自身である、ということである。私が全くひとつの事象に専念しており、そもそも自分のことなど考えていない場合でも、私の自己制御が私の主観性を度外視して私を事象に専念させる程度に応じて、私は即事象的[sachlich]なのである。私の態度の本来的即事象性は、決然とした自己存在が無くては生じないのであって、この自己存在は自己制御のなかで働いているのである。この自己制御を私が必要とするのは、世界の内での対象研究の際だけではない。いかなる限界も知らない問いの行為に至るまでのあらゆる処で、この自己制御を私は必要とするのである。この問いの行為を介して、私の根源的な行動の無制約性が、私に確信されるようになるのであるが。この、限界なく問う行為を媒介として、私は、世界存在と、世界存在の内での私の現存在とを超えゆく途上において、私を探求する。この媒介こそが、自己反省[Selbstreflexion]を意味するのである。この自己反省が、単に考察する反省であるなら、受動的なものに留まることになろうし、際限の無いものの中に自らを失うために、実り無きものになるだろう。この自己反省が本来的な自己反省であるのは、能動的な自己反省である場合のみであり、このような自己反省においては、私は自らに働きかけ、考察的な自己反省を、これによってのみ私はものを見ることが出来るところの、不可欠な手段とするのである。そして、この、ものを見ることのほうでは、能動性のおかげで、意味と目標を得るのである。

 自己反省において、「私は誰なのか」という問いは、新しい仕方で立てられている。自己知は、もはやそれ自体が思念されているのではなく、問いは、その許で私が私へと到るところの棘なのである。実存的な自己反省においては、私は自分を、私についての私の判断から生まれ出て来るものとして、探求するのである。この判断は、自己反省行為によって自己を立て直そうとする真摯さにほかならない。この真摯さは、私について単に知ろうと欲することからは、出て来ることはない。この単なる知の欲求は、意識一般による判断の根底に存するのであるが。自己反省行為においてこそ、私の存在の泉が湧き出るのである。自己反省行為において、私は私にとって私自身の根源となるのである。『汝自身を認識せよ』とは、私が何であるかをひとつの鏡の中で知れ、という要請ではない。そうではなくて、私が私であるところの者となるよう、私に働きかけよ、という要請なのである。私は自己反省において、世界内の諸事物から私を自分へと向き直らせ、私の言動、私の諸々の動機と感情を、それらの言動、動機、感情は、私自身と一致するのか、私はそのような一致を欲するのか、という問いを基準にして、吟味するのである。私は、おおよそ、このように問う、「私はそれらの言動、動機、感情において、魂の安らぎ[Seelenruhe]を得るのか。(38頁)私はそのようなものとして私自身を認めるのか。そのようなものにおいて私の純粋さは守られるのか。それらのものは、私が道徳的な理性として承認するものに適うものなのか。私はそれらにおいて真正であるのか」、と。しかし、このような諸々の基準のいかなるものも、対象的に知られ得るものではなく、あらゆる基準は、定式化され適用されたものとなると、即座に、自己反省による吟味の中に一緒に取り上げられ、このことによって、それ自体、問いの中に立たされるのである。

 2.解消させる自己反省。— 自己反省は、私にたいしてどんな処でも自らを閉じることのない媒体である。私は自己反省によって無基盤性の中に沈んでしまうことがある。たとえどういうものとして私が自分にたいして内面的に現われて来ようとも、私は常に、この私の現象を、その背後に何か他のものが差し込まれていないか、と尋問することが出来る。というのも、私の感情が、無意識に、他の感情を隠している、ということがあるからであり、私の意識的な目的の背後に、他の目標が存している、ということがあるからである。もしかしたら私は私自身を欺いているのかもしれない。なぜなら、私は自分に満足であろうと欲するが、私を自分にとって不満足なものにするものを、残しておきたくないからである。しかしこのような、背後にあるものの探求においては、私は、ただ私の欺瞞的な直接性を解消することでのみ、自分を了解するのであって、存在としての自分を了解するのではない。私は、自己反省であることによって、あらゆる私の仮面を突き破ることを為すのみであり、自己反省がそれらの仮面の背後にそもそも何かを見いだすのかどうかは、自己反省自身、知らないのである。自己反省におけるこのような了解行為は、諸々の欺瞞を解消することによって、私を変化させるが、その都度独特な解消の仕方をすることで、この了解行為自体が再び、その諸動機について尋問されることがあり得るのであり、その場合、この了解行為自体が、欺瞞的なものとして問いの中に置かれることがあり得るのである。そのようにして私は、自己了解行為をしつつ、際限の無い過程に陥ってしまうのである。「そのようにして私へ至るのだ」、という惑わしの期待のなかで、私には、問いそのものの根源性であるいかなる根源性も、残っていないのである。 

 このような途をとるなら私は、自己となることのない自己反省にとらわれてしまう。私の誠意は、明晰性の意志[Klarheitswille]だけで尽きてしまう。この意志は、まだいかなる自己存在でもない。この意志はそれ自体としては、まだ未来の中へと行為してゆくものではなく、まだ、いかなる実現も敢行しない。この意志の絶対的な支配の許では、私は、私にとって私自身が出現する場合にはいつもある冒険[Gefahr]を避けることになるだろう。私は、何が真であるかを、その真であるものを試みるより前に、知りたいと思う。自己反省は、私の現実存在の開始をすべて破壊してしまう。その開始はすべて、自己反省によって即座に疑わしいものとなるからである。私は歩を進めることがもはや全然できない。明晰性の意志が私を萎えさせたのである。

 このようなことが起こることがあったのは、私が自己反省を再びひとつの知識欲へと萎縮するがままにしたからである。私の能動性は、せいぜい吟味と評価の働きにすぎなくなっていたのであり、消極的に働くだけになっていたのである。私は、私自身であるところのものを、否定する行為によって作るか或いは露わにするかしようと欲したのである。しかし、私は、充実した能動性の根源としてのみ在るのであり、この能動性が積極的に反省行為を担っているのであって、(39頁)この能動性によって反省行為は同時に生成するのである。私は、私として在るかぎり、常に何らかの意味において無媒介的すなわち直接的[unmittelbar]なのである。というのは、あらゆる欺瞞を拒否することによって解消する働きへと私の自己存在を萎縮させる、明晰性の意志もまた、自らの誠意の自己確信として生きているからであり、自らの端的な意味での一切のものの覆面性を見遣って、すべてを破壊する行為の中においても尚、それでも自らを、少なくとも欺かれることのない存在者、一度でも自分自身によって欺かれることのない存在者として、確信していることが出来るからである。充実の無い単なる誠意の自己確信の、このような直接性は、自分自身が問うているあらゆる内容を、引き続き尋問するのであるが、もはや、自らの問う行為そのものを尋問するのではない。それゆえ、この直接性には、なんといってもすべては欺瞞なのだからということで、自分が自己存在を失ったと信じる事態が、たしかに起こり得る。しかし、この直接性は、自らの知る行為において自らを確信しているので、絶望してはいないのである。このような誠意の問う行為において、私は尚も自分を気に懸けているのであるが、自らの現実をもつ充実した歴史的存在者としての私を本来的に気に懸けているのではなく、だからまた、私の絶対的な喪失を気に懸けているのでもない。ただ私の真正さを気に懸けているのであり、この真正さは、否定する力によって点のような状態に希薄化しているのである。私は、私を巡る、どんどん空虚になってゆく渦の中を回っているのであり、私はそこで存在しているのではない。自我の諸相に自分を失うことがあるように、私は、自己反省にも、自分を失うことがあるのである。自我の諸相の場合は、私ではないところの、私に関する諸像の中にいるのであり、自己反省の場合は、その能動性がもはや私自身からのものではなく、私へと方向づけるのではないところの、ひとつの機能の中にいるのである。

 3.自己反省と根源的直接性。— 私が自己反省に歩み入る以前は、私は自分の直接性のなかで無頓着である。その後、自分に確信が持てなくなると、私は自己反省をすることを覚える。自己反省によって、自己確信の直接性の中に戻るためである。

 というのは、自己反省がそうでありうるよりももっと深い確信から、私は、自己反省のなかで、私自身は自己反省ではない、という決定を下すものだからである。自己反省は自己反省の真理というものを持っている。その真理とは、私自身が自己反省のなかで顕現しつづけるものであり、それゆえ私は、自らの存在のために自己反省を必要とするところのものである、ということである。しかしだからといって、このものは、自己反省と同一なのではないのである。すなわち、私は、根源的な積極性を携えていなければならないのであり、この積極性は、ただ解放するものではなく、自らの歴史的時間現存在を摑み取り、実現するものなのである。自己反省は目的ではなく、途なのである。大事な問題は、私がそのつど自己反省から立ち現われるということであり、どのように立ち現われるかということである。この私は、自己反省が無ければ、可能性を欠いた直接性としての現存在を、精神も自己も欠いたまま営むことしかできないであろう。自己反省には動機があるのであり、この動機は根源的には私自身から出て来るものなのである。自己反省は自己研究ではなく、自己との交わり[Selbstkommunikation]であり、認識としてではなく、自己創造として自らを実現するのである。

(40頁)

 自己反省は、それゆえ、その意味からすれば、一度失われて再び立ち上げられるべき直接性の、その時その時に通過される媒体なのである。自己反省することによって私は、その都度の一瞬、もう私自身ではなく、そして、まだ私自身ではないのである。私は分裂状態[die Gespaltenheit]としての可能性のなかにあるのであり、この状態を通して、無頓着な直接性は解消され、私自身の本来的な根源性が可能となるのである。

 自己反省は、自己存在の可能性としての自らの基盤から遊離すると、好き勝手なものとなる。すなわち、私は自分を観察し、尋問し、諸々の可能性を行き当たりばったりに論じるのである。それとは反対に、自分にほんとうに寄り沿って反省し、私の以前の行為や現在の態度と向き合うならば、私は、内的な行為においても外的な行為においても、諸々の決断へ至ろうと欲するのである。というのも、私は知っているからである、「私は、私がなるところのものである」、ということを。このものは、私が単に生きているものとして受動的にそれに生長するようなものではなく、自己反省を媒介にして至るような私自身として私が欲するところのものなのである。

 無際限な自己反省のなかで私から失われてしまったところの、私自身の固定的な存立を、私は、およそいかなる修正された、いわば立ち止まらされた自己反省を通しても、再び見い出すことはない。その自己反省はやはり、ただ自らの中に留まり、自己というものから遊離した反省なのであれば。

 自己反省を通過した後では、私は自分を正しいことの遂行においてのみ見いだすことになるが、これには或る自己意識が伴っており、その意識とは、「これは正しいことである。私はこれを欲する。私はこれを永遠に面して真なるものとして欲するのであるから」、というものである。その場合、私は、これは私の使命であり任務である、と敢えて言うのである。そのような遂行行為は、了解行為と知識行為を通しては、単に準備されるのみであり、可能にされるのはその後である。その場合でも、この遂行行為はそれで既に出来するわけではない。様々な可能性は、吟味されると、もう、客観的なもののように確固としてはいない。自己反省行為において私は、ひとつの判断から他の判断へと移行し、分かち、解消することをするが、この自己反省行為の背後には、衝動として、決意の統一への意志が存しているのである。この意志は、自己存在の根源から生じている。私が自己反省行為に留まっているかぎりは、私はタンタロスのように、「私は自分を求めているのに、すべては逃れて引っ込んでしまう」、と言いながら苦しむか、あるいは、タンタロスとは違うが、「決断の形態のなかで私は私自身に出会うだろう、という希望を私は持っている」、と言いながらやはり苦しむのである。

 人はなるほど、警告して言う、「自己反省によって、生きることと行為することの自然な確かさは阻害される」、と。だが、自己反省によって阻害されるのは、ただ、恣意と粗暴な意志のみである。なぜなら、これらは自分自身を不確かだと思っているからである。確かさは、ぼんやりとした本能的なものの尋問されない直接性のなかには、あり得ない。確かさは、明澄な(41頁)自己意識のなかにあるのであり、このような自己意識は、仮借ない自己反省をとして成育するのである。この自己意識は、ひとつの存立するもののように自らについて知ることはないが、自らの存在を、いまや知ることも問うこともなしに、生の持続性を摑み取る瞬間の行為のなかで確信しているのである。

 なるほど、最も明澄な自己確信といえども、盲目的な恣意とは異なったふうに、「私は、自分が欲するが故に、欲する」、と言えるわけではない。というのは、実情が具体的にはどういうものであっても、規定された意志方向は、客観的にも知り得るものとなるからである。しかし、この意志方向は、客観的となるものがすべてそうである様に、自己というものを考慮するなら、両義的である。自己反省は、意味が異なるのに混同される二つの限界に突き当たる。限界の一つは、了解行為によっては全く見透せない、交わり的でなく衝動的な我意[Eigenwille]という、経験的所与の暗闇であり、この我意は、自然の諸力と同様、ただ強力であったり微力であったりするだけであり、精神として推測される諸力の様に、明晰であったり暗愚であったりするのではない。限界のもう一つは、自己の可能的実存であり、この自己は、様々な了解可能なものを媒介として、自らに現象するのである。この意志方向の両義性は、当の所与である生命の暗闇を実存が我がものとしてしまい、この所与を実存の直接性の肉体として使うことによって、いっそうはなはだしくなる。というのは、実存はこの所与を自分のものとして摑み取り、これを、盲目的な存在から自由へと、つまり、実存に属する本質であり実存が責任を負うもの[Schuld]へと、変化させるからである。自己反省は、了解行為をしながら、このような二つの限界の間で自らを拡張し、これらの限界を、規定されないものにしてしまいながら、自己というものから、新たな諸空間を得る。そしてこの諸空間を自己反省は自らの諸手段を用いて開明するのである。しかし、自己反省は、客観化作用をもつ了解行為としては、この自己そのものを摑み取ることはない。この自己そのものは、そのような自己反省の前では、むしろ後ろへ退き、攻め落とせない卓越性をもつものとして、あらゆる知や解釈にたいして自らを対峙させることが出来るのである。

 したがって、自己反省を終結する私の意志は、もはや、かの、常に暗愚な、精神とは疎遠あるいは敵対的な恣意の表現ではなく —— 恣意は、現存在の単なる粗暴さであり、この現存在は自らを理解することも愛することもせず、無頓着に自らを満足させるだけである —— 、自らをこの意志において確信する自己存在の表現なのである。この自己存在は、実存の絶対的意識として、根源の暗闇から歩み出て、自己を貫通するための明澄化の無限な過程へと入るのである。この実存は、精神にたいして扉を開いているが、精神よりも以上のものなのである。私が確定や吟味や判断の行為をした限りでは、自己反省は裁判の場であった。だが、私が自己反省に面と向き合い対峙して、意志した時、自己反省は裁判の場ではなかったのである。というのは、自己反省は私を貫通しないからである。すなわち、無限な開顕過程の途上で、自己反省は、謎に満ちた敷居の前まで至るのであるが、この敷居で、自己反省にたいして、ひとつの飛躍を通して『私自身』が現われ出るのであり、この『私自身』によって、自己反省は自らの側ではただ運動するだけに留め置かれていたのである。

(42頁)

 4.自己欠落と自己被贈。— 根源的な遂行行為において自己は自らを確信するのであるが、この遂行行為が起こらないと、人間は絶望することがある。

 自己反省が単に、たまたま自己を意識することであり、自分で判断したり働きかけたりする能動性が無い場合には、絶望が脅かすことは決してない。このような仮象的な自己反省を、私は、自分を気に懸けること無く行ない、このような反省から毎回即座に脱け出て、忘却してしまう。私は一瞬だけ自分に意識されたのだが、自分へ向かうために自分を規定するという態度には、入って行かなかったのである。

 一切の欺瞞を廃棄する自己反省が、明晰さへの意志それ自体として、尋問されない消極的な自己意識を自らの担い手とする場合もまた、絶望が脅かすようなことはない。

 しかしこの自己意識も疑わしくなる場合、すなわち、人間が自分をまだ期待しながら、その自分自身が欠落している[ausbleiben]場合、自己反省は、自己生成を促す棘である代わりに、己れ自身を消耗させる火となる。現前的な瞬間を前にすれば相対的なものである自己反省が、自己というものが生成するための機能であることに留まることをせずに、自らを絶対化し、このことによって自らを廃棄して、全体としての私を判断しようと出しゃばっているのである。自己反省が、私自身が生成する途上における判定の場であることをせず、私の存在そのものを判定する場となってしまう。私は、可能的実存に基づいて私固有の可能性への信仰をもって私を探求することをせず、この可能性そのものを懐疑の渦の中に引き込んでしまうのである。私自身を全体として疑問視することで、私はもはや帰る路を見いだすことができないように見える。自己反省が自らの限界を踏み越えてしまったのである。この限界は、自己反省によってのみ可能な根源的自己存在が、同時にこの自己反省にたいして置くものなのであるが。絶望が、絶望に耐えてこれを担う可能的自己存在からも本来的自己反省からも解き放されて、自らの力を示しているのである。私は、絶望のみを真なるものと見做し、私自身のあらゆる可能性に反対して、絶望の語ることを信じるという、逆説的な不信仰のなかで、私は自分を永遠に拒否しなければならないことを永遠に信じているように、私には見える。このことによって私は、絶対的に希望無き者となるのである。

 しかし、この絶望が脅かす時、私は絶望から、そしてそのことによって私自身から、逃げることを試みることができる。私はたぶん一時期は自己反省において誠実だったのであるが、それも、私が自分に驚愕するまでであったのであり、いまや、自分を保護しようとする動機に基づいて自分を解釈し直しているのである。自己反省の新しい諸可能性が、そのような再解釈の固定的公式化によって逃避されたか、折り取られたのである。私は、自分の開顕化に我慢して耐えることをしなかったのである。この開顕化の冒険とそこからの私への呼び掛けは、私を不安にさせる。私は、私の諸可能性を前にして逃げたのであり、自分にとって、硬化した建前[Vorbau]として留まることになったのである。とはいえ(43頁)私はそのような回避の態度では、漠然としたまま落ち着かない[unruhig]。私はなるほどこのように防御を固めた、すなわち、「もはや私とは誰も遠慮無く語ってはならない。いっさいは固い秩序に縛り付けられるのだ。『礼儀』こそが、全く規定を受けない、最高の規制となる」、と。私は自分にたいして、考え方の様々な可能性を禁じたのである。しかしながら、このような防御行為には同時に、この行為の不自由さ[Versagen]が存していたのである。すなわち、私は、私に支えが無いという深淵の中に目を遣ったのであり、今や私の現存在は、このような態度において単に外貌にすぎないのである。私は、それを自分に白状しないが、私の自己の無を見遣っているのである。権威が救ってくれるように見える。権威は私に、外部から、私が自分では自分に与えようと思わなかったものを、与えてくれるのである。権威は私に、私が何であるか、何が私から生成するのか、言ってくれるはずである。私は、服従に基づく自己存在を欲しているのである。私は、自分の自己反省にたいして、その可能性を制限する。すなわち、自己反省は、外的支援とともに私に与えられる確たる基準に従う、制御行為となるべきだということになるのである。私の不安静は、根源的であることによって絶対的なものなのであるが、これを私は、有限性のゆえの不安静さであると隠蔽するのである。自己存在は、自己から他の自己への本来的交わりの運動においてあるものなのであるが、このような自己存在が持ちこたえられなくなるのである。私は、私自身であることを敢行しなかったのであり、このような問いの行為が止む、別の存在地平において、私が救われるのを見たがっているのである。

 そうでなければ、私は、もうひとつの別の側へ逃げる。自己反省によって、本来的な自己存在、すなわち、絶えず自らを開明しつつも決して窮極的には開明されることのない自己存在という限界に突き当たる代わりに、私は、私の経験的な所与という限界、すなわち、常に暗闇であり、暗闇であり続ける限界に、寄りかかるのである。私は、絶対的意識に耳を傾けることによってのみ存在する私の自己から身を引き、今や根本的に、ただその暗黒の現存在そのものだけを、無頓着に貫き通す。私は自分を孤立化することで、自分を破滅させ、ひとつの存在となるのであるが、この存在はもはやいかなる自己存在でもなく、この存在自ら知りかつ欲する故に、悪を意味する存在である。しかしまた、この存在は、本来的に知りかつ欲することは出来ない故に、助けを必要とする存在なのである。この存在の隠れた自己存在は、無意識のうちに、つかまることのできる救助の手をただ待っており、子供のようにその手に従おうとするのである。

 それゆえ、自己反省の最後には、可能性として絶望が立っている。この絶望は、自分自身を権威か現存在かに委ねようとする渇望として立っているのである。両方の場合とも、私を迎えるのは、せいぜい、その眼差しは虚ろで、その手は手応えのないものに留まるかのような、或る存在だけである。いかなる自己ももはや答えることはなく、答えるのは、うまい言い回しや、型通りのことや、あるいは感傷的なこと、もっともと思えるような荘重さであり、同情を強要する弱さなのである。

 (つづく)