ぼくにたいする、すべての他者の言表(言動)は、ぼくをやりこめる意味をもつのでは無く、その者がどのような段階の者であるかを、ぼくに知らせるために、起こっている、と把捉転換できる。 たとえぼくが契機をつくっている場合でも、それならそれだけいっそう、相手を知るためのぼくの無意識な智慧が、あるいは天の配慮が、そうさせたのである。 いい勉強になりました。 そのおかげで いまのぼくの認識がある。 

 

 

どんなに時間がかかろうとも、かかったらかかっただけ、ぼくが勝つことを ぼくは知っている。

 

 

これが、審判する者は審判される、ということの意味でもある。