自分から自分を疎外させるのが、他人への意識の関与である。その疎外の鋼鉄の観念が、他人への義務という観念である。これをぼくは撤廃することにした。 これは付随的な結論と決断であって、それに先行するものとして、ぼくはさきほど、自分への目覚めを経験したのだ。なんだって他人の言動に意識関与する必要があるのだ。だいじなことは、じぶんをきわめることである。その瞬間、他人との関係にあるものが、他人たちともども、牽引力を失った。ぼくはこのところ、他人たちの整理を、かれらへの妥当な判断の形成としてやっていることを、ほかで言っているが、ぼくの目覚めは、その成果だと言ってもいいのだ。厳密である必要はない。疑わしいものは完全な虚偽と同様に投げ捨てるというデカルト的懐疑の意味をもてば、この判断形成は充分なのだ。さて、それはもう終わった。そこから押し出されて、また、自発的に、ぼくは自分の目覚めを、ひとつの飛躍において経験した。もうほんとうに、自分の路のみにかかわろう。それが哲学的に正しいのであって、それを言ったのが、この節の題の命題なのだ。 関わる意味のある他者は、ぼくがその他者に触れて自分をたしかめる経験をする他者だけであり、それは音楽を奏でるきみであり、高田博厚やヤスパース、マルセルという思想家なのだ。女性ではきみひとり。そういう、ぼくが自己回復のできる他者のことを、友と呼び、女性であれば愛するひとと呼ぶのだ。これがぼくの愛の定義である。

 

ほかの、友でも愛するひとでもない、他人への無関心、意識の離脱が、ぼくの自分への目覚めと同時に気づかれた。自分と、自分が回復するひとにしか、関心が無い自分が目覚めた。 これを記すために 書いたのである。

 

 

ぼくは他人を批判するために生きているのではない。自分をきわめるために生きているのだ。この感覚がぼくの本性である。 批判はもう充分やったので、卒業する時期である。 友情も何も感じない者への批判は、それ自体が、他人への責任の観念に縛られている自己疎外であり、この責任意識は、自分の自己疎外の自分にたいする隠蔽として作用している。他人一般への倫理意識に駆られている者で、他人を批判しない者、自分への本源的感覚を欠いていない者をみたことがない。 ぼくはそういう者たちとは最初から本源的にちがう人間なのである。

 

 

 

修道士トマス・ア・ケンピスの、一般の人間交際を避けるという教えが、こうして回復し実現される。