日本ではどうしても、個が尊重され難いところがある。法的にではなく、日常的社会生活の人間関係においてである。平気で他者の生活領域に言及してくる。二人称関係が意識の基盤になっているという、森有正の指摘はあまりにも有名で、ここで論じる気にもならないほどだが、それが克服されていないことは、日本的人間関係のどうしようもなさを逆に立証している。ぼくが言いたいことは、西欧の個人主義意識は同時に普遍的科学意識と相即しているということのほうである。デカルトの自我と物質の二元論が既に原型的にそれを示している。現在、物質意識のほうが暴れていて、個人意識を圧迫しているが、そういう対立緊張を引き受けて西欧の個人意識は展開深化してきたと理解される。日本にはそういう地盤が無い。西欧では、人間を物質計量的に観ずる法的規制が成立すれば、それは圧政であることが現在立証されているが、それは二元論における一極を背負っている宿命だろう。マルローが、西欧文明の悲劇性という本質を日本が理解できるか、と問うているのも、理解できる。ともあれ現在、世界は文明本質のヴィヴィッドな立証現場となっている。