日本では、哲学の学者でも、個人の根源的「個」性への尊重がなく、相手をじぶんとの人間関係において、じぶんの意思に有利な方向に相手を強いようとする。人間は各々みずからの運命を生きるべく自己の根源から促されている存在であることへの意識が、学問として哲学を究めていても育っていないらしい。他者が、じぶんの都合のいいふうに人生行路を按排することを、半ば当然のように思っているのは、人間の底の見方が浅いとしかおもえない。日本で生きていると、個人の底はその程度に思えるのだろうか。人間関係と社会地平にしか、人間は生きていないように思えるのだろうか。それが東大や京大を出た教授たちなのだ。ぼくがヤスパースに情熱を懸けていると、カントをやらせようとしてヤスパースをけなし、ぼくがマルセルにも本気の関心を懐くと、今度はヤスパースの学者が、マルセルに同様な態度をとる。まったく、こちらは、高田博厚と高村光太郎との人間関係に、あるべき本来の相互「個」性尊重の態度を知っているのだから、話にならない水準だと、黙って判断し、これらの大学の学者を精神的・内的に見捨てたのだった。日本は、そのくらい なさけないところなのである。