共感力があるつもりの者が、同時に専制的でない場合というのは、きわめて稀だろう。 正しくはこう言うべきである、多くの共感力は、自己の感情の膨脹力にほかならず、相手の感情を正しく捉えていることは きわめて稀であり、それ自体、もとから自己中心的で専制的なのである、と。 

 

知性と意識力が伴わない日本人の情緒的傾向は、ほとんどこの失敗を免れない。 

 

 

 

善良で優しいつもりの日本人に特有なこの自己中心的・専制的な共感力を、そのような正体のものとしてはっきり掴み取るに到るまで、ぼくもそうとうの歳月を要し、多量の時間を生きねばならなかった。

 

 

 

相手への思いやりに存する盲目性、盲目なゆえの思いやり。これだけ歴史を重ねてもまだ気づかないのは、耽美的・自己陶酔的な民族病だ。

 

 

このように経験を認識として固めなければ、ぼくも馬鹿で損な人間経験をしたというだけになってしまう。 認識は、まともに相手にしないという態度と、自由を生む(関東人にたいして特に言える)。

 

 

美しい夢を懐く資格は、知性あってこそあるのだ。 そういう知性をぼくはこの欄で魂とともに敢行的に示している。 これが高田博厚主義と言えるものだ。