人間いかに生きるべきかという一般的な問いを、自分はいかに生きるべきかという実存的な問いで突破すると、もう公的な議論は意味をなさなくなる。 ぼくは最初から、後者の問いの声しか聞いたことはない。 そのかぎりで、ぼくが学問や社会的人間関係に帰依するなどということは、ありえない笑い話でしかなかった。ぼくが学問するのは、学問しているかぎりでは、もっと深い動機からなのであるが、これもまた、一般的に了解し得ない、ぼく自身の動機からなのである。 

 

 

 

人間というものは一般にいかに愚劣か、それはぼくの想像をはるかにこえるものらしい。ぼくは神経質だが、それはぼくが潔癖であるからであり、その潔癖さは、一般の人間より位階が上の者であることの識別印のようなものだと、思うようになった。これもぼくの場合であり、一般化できるかどうか判明ではないが、他方、つまらない人間の無神経は、何の価値も無いことはあきらかだと、思うようになっている。 

 

 

 

社会への貢献とは、愚劣な人間で一杯のその社会のなかの、少数の見込みのある人間のための、奉仕なのである。そうでなければそこにぼくの自己同一性は無い。しかもその奉仕はぼくの生の日課的一部なのであって、ぼくはぼくの純粋自己のために生きるという至上課題にしか、生の根源的動機を見いださない。