初再呈示 

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(これはぼくの感想として記録し公開しておきます。) 

 

音楽で気を散らすことをもとめている人々が多いようだ。そういう〈音楽〉が再生数が多いようだから。そういうものはぼくにいわせれば内容がないもおなじだ。そういう聴き方では、沈潜を要する音楽には入り込めない。聴く態度が逆だから。沈潜すなわち集中を要する音楽、裕美ちゃんの音楽はすべてそうだ。イージーリスニングとはまったく違う。

 しかし世には、集中しない聴者、集中しない音楽、空無のなかに漂わせる〈音楽〉、そういうものが多すぎる。ぼくにはそういう人気音楽になにも求めるものがあるはずもない。

 ポピュラーばかり聴いてきた者が、裕美ちゃんの音楽にただしく感じるはずがない。ぼくはずっとクラシックばかり聴いてきて、その態度で裕美ちゃんの音楽に出逢ったのだ。求めてきたものがまるでちがう。

 

彼女は自分の音楽修練がクラシックであることに、当然のように誇りをもっている。そういうひとである。そういうひとが弾いてくれた。並のことではない。弾く精神が違う。

 

集中のくつろぎと散漫のくつろぎがあることを知るべきだ。ふたつは真逆の次元だ。

 

 

彼女の音楽に感動する聴者は、その「クラシック性」を経験して感動するのだ。集中した魂をそこに感覚するから。

 

 

 

(とはいえ、彼女のおかげで、ぼくはクラシック崇拝者ではなくなった。クラシックを通ってきたから言えることでもあるが、精神的に愛せる音楽が最高の音楽であり、それこそクラシックであり古典なのだ。)