2016年に書いたものを初再呈示。ほんとうだろうか。

 

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あなたを愛しています  それだけがぼくの真実





目覚めたとき まったく孤独な淵のなかで その一念の矢だけになっているぼくがありました 他はなんにも無かった















相手への尊敬のない愛はけっして受け入れられることはない。尊敬とは真の理解、すなわち相手の本質の感知と本質への信仰である。〈謙虚な〉日本人にどうしてこれが、最も親密に愛するべき相手にたいしてさえ、著しく欠けることが多いのであろうか。自分の中で相手をいいふうに〈位置づける〉ことの表明を、やめられない。〈自分の下に〉置きたいのである。 その心性がぼくにはどうしてもわからない。 もっとも緻密な思惟を働かせることのできるぼくは、もっとも単純に相手を尊敬し信仰することを知っている。 貴方がたにこれができますか、できないでしょう。 自分自身に自信がなく、自惚れだけがあるからです。未熟だからです(自信の代わりとして自惚れしかもてないからです)。歳と関係ありません。「自信がないからです」、この言葉は理屈や予期なく、いま浮かびました。そう、そのとおりだと思います。貴方がたの誰も、ぼくより謙虚ではないのです。学識者実業者、大方の芸術者信仰者を問いません。 

 ぼくが彼女と居たいのは、ぼくと同じ純粋さがあるからです。






貴方がたには、「絶対的意識」の感覚がないのです。これもいま不意にうかびました
「神」なく、ぬくぬくと戯れることしかないからです





脈絡はありませんが、ぼくは「ソラリス」の、惑星へ旅立つ前のあの夕暮れせまるような沈黙と静けさのなかのひっそりと時が歩む情景空間がすきです

ぼくには 「絶対的意識」の響きの描写です  世界(自然)に溶け入っているようでありながら内面の韻律に集中し意識が自立している


 

 

 




ぼくはとにかく濁った澱んだものが大嫌いで、ひんやりした清涼な大気が、浄化してくれるような清浄な空気がすきなのだ。真冬でも部屋窓を開けて外気を入れたなかで仕事するのが快適だった。自分の部屋にふかふかの絨毯を敷くなどということもかんがえられない。 「あなた軍人か?」とか「禁欲主義だ」と欧州で言われたこともある。



絶対的意識の意識性
ヤスパースの云う「絶対的意識」は、直接的な受動的体験意識ではなく、能動的(aktiv)に、徹底的な意識性を通して自覚されるものである。同時に根源的に個的で、「単独的な個人」のものであり、そういう意味で「歴史的」な意識であるが、科学的認識主観である思惟一般のような非個性的次元をも、回避せず意識的に「包み越えてゆく」ことによって、はじめて真実に自覚される。窮極の意識なのであり、意識の諸段階を(体験意識も、認識対象相互の判別意識も、対象客観と認識主観との対峙意識も)すべて知り、かつ活かすことを知っている。そのような、徹底的な、知性そのものであるような「包越的意識性」を、ヤスパースが「絶対的意識」とよぶもの(彼の言う「実存」の自己意識そのもの)に関して、強調しておく。ぼくがヤスパースに共振するのも、その、知性の極みであるような「意識性」のゆえである。




*占星術なるものも、特に「性格」の否定的評価の如きものは、魂の表層の逸脱傾向の大小を、「性格」と称して分類しているに過ぎず、いったん魂そのものに真摯に向き合えば、じつにくだらないことであることがわかる。「絶対的意識」に目覚めるとは、占星術の類についても、そのように判断することができるようになるということである。





教育
此の世をかいかぶるな、と教えるべきである。狡猾な者が此の世で勝利することを教えると同時に、そういう者を人間の屑であると教えること、この二重の「教え(教育)」ができるであろうか。これはつまり、心底で此の世を軽蔑することを教えることである。日本の教育は、戦前も戦後も、そういうことをしない単純信念の押し売り(だまくらかし)だから、ぼくは「教育」なる次元に関与しないのである。




「絶対的意識」と「限界状況」の思想者ヤスパースは、これらすべてを知っている。


ヤスパースを「大したことない」と言う者は、自分が「大したことない」と自証しているのである。ヤスパースの価値に気づくよう世を括目させられない学徒達の力量不足責任は大いにある。ぼくの健康が普通を維持していれば、確かに、「期して待つべきもの」(ぼくにたいする過去の指導教官の評価の言葉)が実現しただろう。ぼくはヤスパース研究に関しては、幾名もの識者研究者から真剣に期待されていた。これは事実である。 身体なしで精神だけで生きているような無理をしすぎた。「きみは体だけ(が問題)。」と辻邦生氏は言い、「どんなによい素質を持っていても体をだめにしたら何にもなりませんから。」と高田常夫人も電話で仰ったのが、つい先日のようだ。 強制的にぼくの身体を破壊させ、かつそれ以上のことを起させた責任者群は、死ぬしかないのは当然だろう。 あのころの状況のまともさをおもうと、いまは世界があきらかに異常であり、まったくちがう世界である。これだけが信じられない。(状況承諾のような問題ではない。) こういう魔界に入ってはいけない人間が押し込まれたという実感だけは確かで、此の世が責任をとるべきである。〔ぼくがそれを自分の存在のためにどう「活かす」かという実存的「我有化」(Aneignung)とは別問題の、「責罪論」(Schuldfrage)(ヤスパース)である。〕

「まともな世界」とわれわれが見做している世界こそ、われわれ自身がつくった人工観念で、時間空間の直観形式の裏は、とんでもない実相世界なのかもしれない。



何が現実かではなく、どういうことを真実と見做すかに、あらわれている、判断主体の誠実さこそ、問題である。



「絶対的意識」と、此の世の二律背反構造である「限界状況」を、ぼく自身のものとして現在徹底的に遂行し経験していることに気づく。ヤスパースの思想は、そこに自分の存在を映し確認する鏡なのだ。 つまらない者は自分のつまらなさを鏡のなかにみている。