アランの説でもある「高邁の心」は、デカルトの意志的心身分離論の実践的帰結である。

 

 

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自立的内面性の境位は、因果応報から自分を解く主体性であり、これが魂の境位である。 

 

 

このゆえに自立的立法は自立的慈悲となる。神々にたいしてさえも。これがデカルトのコギトの真意であり、その説く高邁の心の徳である。 

 

 

そこには何か無私(無心)の信仰というものがある。 因果応報への配慮に繫縛されない。

 

 

 

 

 

現実とは、愛によって信仰されるものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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集合容喙現象を大学で直接扱うことは難しいだろう。間接的に扱う方法が必要(例えば感性論に絡めた共時性論)。

 

感性は総合的なものであり、主題とすべきは「人間」である。 

 

感性を学問主題にすることじたいが、精神を本道から逸脱させる。大事なのは「実存」としての魂である。感性はこの原理秩序のもとで意味内実を得る。日本の研究者は哲学をもつべきである。

 

愛と美は感性の問題ではない。「人間」の問題である。はきちがえてはならない。

 

 

好奇心からの学問研究が現在多いが、ほんとうの人間研究は愛からであるべきである。 

 

 

大学の大衆化に応じ、学問も現在、大衆化している。由々しいことであり、ぼくの思想態度はこういう傾向に真っ向対立するものである。 

 

 

感性は人間に不可欠である。感性にどういう態度と視点でのぞむかが問題である。

 

 

真摯に生きるということを離れて感性の意味はありえない。

 

 

感性は、「人間(自己)となる」ための媒介(触媒)である。

 

 

感性を科学するのであれば、感性論そのものの限界を意識し、「人間」という課題を忘却しないようにしなければならない。 〔「芸術家である前に人間であらねばならない。」ロダン〕