名節。アランの思想を語っているのではないが、アラン的雰囲気がある。 

 

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感じること すなわち感覚することのうちには、なにか普遍的なものがあり、そこにとどまるかぎりわれわれはめったに誤らないだろう。 しかし普通人は、そこからすぐに、たとえば或る人物を理解もしてしまおうとする傾向があるようだ。そうなると問題が生じてくる。 しばしば、感受性はあるのに〔それは、きわめて人間的な動機から解放されていることを意味しない〕、判断で過ちをする人々というのは、反省・思慮の訓練ができていないのに、感覚の確かさに安住しているのである。感じることから理解することの間には距離がある。こころのゆたかさ、器量というのは、この距離を意識してたのしむことのできることである、とぼくは思う。感じてもそこからすぐに人物を判断しないこと。意に留めつつ注意を保って無知をたのしむこと。これが真の鷹揚さである。ここでもアランの言葉を思い出す。「判断を日延べする術」を覚えなさい、と。 

 

 

 

 

理解の途上にあるためには愛と、まことの知性が要る。このどちらも欠けている者が、速断する。この自分の速断を狂信している者は、ほんとうは愛してもいないエゴイストなのである。 反対に、真に知性をもって他にたいする者は、それだけでよほど、他にたいして真の愛をいだいている者である。

 理解することは(相手の)全体を理解することであり、(相手の)全体という理念の許で、理解の途上にあることを自覚していることである。ここから常に、相手への開けた態度が生じているはずである。 速断し即断する者は、けっして慕われることはない。