人間には各々、他には想像もできないような事情や意識がある。それを忖度できないような者はすべて馬鹿の骨頂である。どうしてこちらのほうがそういう骨頂の判断基準に合わせて恐れ入らなければならないのか。 そういう馬鹿が東京とその周辺には多すぎた。 東京でなくともいるだろうが。 これは学の有無にかぎらず多かった。 学ぶことは人間を賢明にしない。むしろ錯覚と知性隠蔽を起こす。 人間しだいということだ。 その人間が、全然なっていない。学びが錯覚と知性の惰眠をもたらしている。世代にかかわらず。 

 

 

東京とその周辺の者たちは、他者にたいして距離感がない。(この距離感を東京者は〈お山の大将〉と形容する。まさにガキの次元の視点だ。)これが東京に来て得たカルチャーショックだった。人間生成の基本がそもそも間違っている。それを最初からはっきり感じた。 

 

日本の辺境と偏見されている鹿児島にいる人々は、かなり、全然、ちがう。 基準となるような知性が陶冶されている。 ものを知ることと知性とは何の関係も無い、と極論できるほどだ。人間次第なのである。 東京の者たちはやっぱり阿呆だったと、それではっきり解った。 

 

ものを知っているから大人だと勘違いしている子供が東京とその周辺の者たちなのだ。ものを感じることができるから大人だと勘違いしているのも、同じことである。意識が追いついていない。