いまのぼくは、集合的容喙現象とぼくが呼ぶものの根底には、異次元の技術があると解釈している。この世の組織が働いていると判断してしまうのは、異次元の、実体隠蔽工作かもしれない。
あの状況に呑まれざるを得なかったぼくは、状況とともに、いまは脱却されている。ぼくは、状況に関しては回復した。改善は、ぼくがこの欄を書き、書いた内容を生きているうちに、成った。この欄はその歴史とも言えるのである。大きな過去を感じる。いまのぼくは、その大きな過去の更に前の過去、つまりぼくの状況が正常だった頃の過去と、つながっている。これがぼくの「回復した」という意味である。 こういう回復を強調するのは、ぼく本来の精神的なものとは何の関連も無い過去の状況を思いだしてその記憶に呑まれるのは、もう絶対にいやだからである。 記録した内容は、いまや歴史的意味しか持たないとぼくは断言する。 歴史の事実である。 これをどう、実際のぼくと断絶させながら、なお、歴史の事実として省察すべきであろうか。 ぼくはこの課題からまだ逃げていると言える。そのくらい恐ろしい状況なのだ。 その時の記録のままでの再呈示はしたくない。 作用が強すぎる。
しかし ぼくがあの状況のなかでどう自分の精神を鋳直したかを確認することは、そこでの根源的な愛の経験の想起とともに、現在のぼくにとっても、深い意味があると思える。
歴史的原点 ”622 随感覚書 〔加筆 ~le 20〕 〔補〕”
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五年前のきょうの節。
凄惨な時代があった。この状況のなかでぼくの根本意識は鋳直され、揺るがぬ根本思想となり、いまがある。
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(今回'22 読みかえして傍線を引いた箇所の周辺を記しておく。)
ぼくがどれほど自分が書く言葉に神経を使い選択しているか知れない。自分の気分にぴったり合わない言葉はぜったい使わない。それによって思考(思念)そのものが厳密さを失うようにおもうから。これがいちばんいやだ。他者には文意が伝わるのに変らないかもしれないが、ぼくにはそれではすまないことはぼくだけが知っている。
たとえばぼくは、まあ自分がいつ死ぬかわからないし、というようなかりそめな言葉はぜったい使わない。およそ無意味な気の抜ける言葉だ。不必要で真剣でない言葉だとぼくは思う。言葉は結晶でなければならない。そのつど必然的に生じたものでなければならない。これはぼくの基本的美学(美意識)にぞくすることだ。言葉は命である。そのつど本気でない言葉は書かない。
ぼくの辞書には〈時間的死〉という言葉はない。魂の死があるかないかしかない。
「海辺の墓地」を前節欄で六行一纏りずつ訳している。一日一纏りずつだとあと十四日かかる。これもたのしみだ。登山のような手応えがある。
ヴァレリーの詩を読み解くのは、哲学論文か数式を読解・理解してゆくのに似た感覚を覚える。この一義的な明晰な理解を強いるかに見える詩文も〈詩〉なのだろうか。
これは僕のためでなく、読者の理解のために言うが、こういうふざけきった言語道断の状況と状態においても、正常な生活をいとなみたいと思い、それを可能なかぎり実行する努力は、本質が正常な人間であるかぎり、つづくのだ。これが当事者が異常でなく、異常なのは周りの連中であることの何よりのしるしなのだ。かくして僕も、何も無かったら継続していたであろうことをこの瞬間にもやっている。だからといって君達と同じ生活を営めているなどとゆめゆめ思ってはいけない。これは異常な状態にあって精神が正常であることの証であり矜持なのだ。ドイツがパリを占領した日も日常を継続したパリ人の意識はこのようなものであったはずだ。それが或る意味で最大の抵抗であったと解さなくてはならない。ぼくがこの欄を書き、茶目っ気も発揮し、ヴァレリーの詩を淡々と訳し感想も平然と述べるのは、こういう意味においてである。すべて〈異常〉への闘いであり、最大の復讐なのだ。「復讐するは我にあり、我を払わん」の意味である。フランス人の不文律である「La vie continue」(生活は続く)も人間精神の自立独立の実践であるほど意味が重い。「何でもない当り前の生活のなかにこそ深い真実が在る」(高田博厚-彼はこのことにフランスの知性人との交わりで気づいた-)。敵をやっつける戦いと、だからこそ同時に「人間」のいとなみを続ける、
アランはデカルトについて、〈彼を理解するのに我々に最も欠けているのは知性であり、このことを痛ましい思いをもって実感しなかった者は憐れむべきである〉と書いている。デカルトの我々にとっての難解さは、抽象的理屈の域などにはなく、むしろ極限的な直観力、自分をぎりぎりまで追い込んで見極め判断を下す精神力にあるとぼくは感じる。これと同質な難解さ、むしろ難解と感じるのは、言い訳のきかない我々の精神の怠惰に原因があるような種類の難解さ-数学におけるような難解さ-を、ヴァレリーの詩を訳していてぼくは感じる。
人間の精神あるいは魂が不死であるという意味は、どんなことであれ人間が或る〈もの〉に意志的に関わっているとき、すなわち〈行為〉しているときには、その〈もの〉に即し、〈もの〉に自らを託することによって、時空(という観念)を超えている、ということである。