2015年に書いたこの節がぼくにとっても古典となっている。文の感じが しっかりしている。あの大変だった時期に。 

7回目の再呈示。前半のみ。

ぼくの形而上的アンティミスムの根本思想でもある。

 

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ほんとうの思い遣りや優しさは、忠実と信仰に基づくものだと思う。忠実と信仰は同じことである。忠実と信仰は、内的な確信経験が中核に在って、これを根拠とする。日常の次元にあって、この思い遣りや優しさは時に厳しい克己を要し、時に無条件的であり、状態を顧慮させない。意志の強くない者に到底期待できない。創造的なものは厳しいものである。



人間の道において「ぼくたちも間違いをする」と先生も言っている。しかしその刹那は間違いとは思っておらず自分の真実からと思っているのだ。「間違い」と思うのは時間を経て後である。そのときはその刹那の自分はおらず、多かれ少なかれ「他者」の視点に立っているから、その判断はその刹那にたいし多かれ少なかれ不当である。自己にたいする判断による自己分裂に陥らぬ注意深く公平な自己深化だけが意味あるものである。



出る杭は打たれる という。しかし出きってしまうと崇拝されるようになる。どちらも当てにならぬ。自分で「人間」にならぬ者が殆どだからそういうこと(杭を打つか崇拝する)になるのである。「人間」対「人間」しか信用してはならない。君達は何を求めているのか、打たれないことか、崇拝されることか。「魂がそこなわれる時、魂を犠牲にして成功する時、君にとって決して幸福な花は開かない。」 H.H.(ヘルマン・ヘッセ)



愛とは、相手の「魂」を大事にすることにほかならない。(ゆえに)大事にされたければ 自分が自分の魂を大事にし自分の魂にならなければならない。(自分の側からは、)自分の魂をそのようにして知らない者が どうして他者の魂を大事にすることが、すなわち相手を愛することができようか。この意味での「教養」のない者が愛において成功することはけっしてない。
 自分を大事にできなければ、つまり自分を愛せなければ、他者を愛せない。自分の「何」を愛するかを知っていることが「教養」なのである。
 愛は「魂」と「魂」の間のものとしてのみ真実である(自分と自分の魂との間のものとして真実であるように)。魂に、つまり自分にならなければならない。魂になっている者を見出さなければならない。魂を覚醒させなければならない。これが「教養」なのである。