人生は、どこかで仇がとれるようになっている。ぼくにとってもだ。

ぼくが仇をとると言うとき、代償、埋め合わせのことではない。そんな逃避的な慰めのことではない。ぼくの充実は充実そのものによって成るのであって、仇とりとは関係ない。仇をとるというのは、具体的な一つ一つの相手の罪が裁かれ罰せられるのをぼくが知る、ということだ。 

 

 

根拠があってこう断定したのか、よくわからないが、ぼくに書かせるものがあって書いた。

 

 

ぼくは、執念深く、納得させるものをもとめる人間のようだ。

 

 

 

きょうは こういうことを書くつもりではなかったが、ぼくは陽が出るとすぐに影も出る人間のようだ。 

 

 

 

きょうは翻訳はお休みだ。これでも陽に引き留められているのを感じるから。