大方の人間は、食べるために働いているから、仕事と言えば、その労働のことだと思うだろう。食べるためではない仕事は、志をもつ者のみが理解することだ。精神的志向(志)のために生きようとする者はわずかしかいないから、大方の人間は、食べるための労働から解放されたら、怠惰と堕落と不善に陥るだろう。だから、精神的自立というものも、経済的自立としてしか理解できない。しかし、経済的自立は精神的自立ではない。そもそも前者は真の自立でもない。日本は個の自立など求めず、自立に価値を認めない国である。精神的自立はあくまで個人の内において、精神そのものによって求められ達せられねばならないものである。しかしまずこういうことは日本では発想されもしないだろう。それなら西欧の哲学は、いまでも日本には無縁であり、じじつそうである。このことを日本の学者もずっと無視しつづけて現在に至っている。だから生活とは関係ない遊びをやっているような生ぬるさがある。文明開化などいまだにできていないのである。文明の基になる文化に目覚めていないのだから。 

 

 

いまの西欧の専制政治は無論、言語道断である。これも西欧の一方の歴史的本性であり、これに抗して個人の自由を血をもって闘い取ってきたところに西欧の偉大さがある。ここでも歴史は繰り返すだろう。

国民を無慈悲に扱った政治家には、無慈悲な結末が待っている。 これは西欧のみのことではなく、日本でもそうだろう。日本人も大久保利通をあのように惨殺したほど凶暴になれることを、ゆめゆめ忘れてはならない。