マルセルの戯曲の意味を感得するためには、彼がどれほど深い教養ある思索家であるかを同時に感得していなければならない。たとえば彼のリルケ論やヤスパース評の深さ鋭さを同時に知っていなければならない。敢えて言うが、マルセルの思想の深さ緻密さを知っているならば、日常世界での人間模様の次元を描く彼の戯曲世界に、ある種の落差さえ感じるほどである。彼の戯曲を読む機会は、ほとんど我々に与えられておらず、貴重であるが、彼の精神本質を知るには戯曲を読めばよいというのも偏った極論だろう。それほどマルセルの思想世界は、晦渋な形而上問題に体当たりした思索のドキュメントである。その深さは、観念的な体系的思想の遠くおよぶところではない。彼の、日記のかたちで記された形而上的思索の深さと、彼の、日常次元での人間ドラマである戯曲が示すものとの間の、相互に前提したり予期したりしていない通底性を感得することは、彼の書いたものを読む側の、創造的課題なのである。それによってはじめて、戯曲も、「証の演劇」となるであろう。 ぼくは再び彼の戯曲作品を訳そうという気になったが、中断した理由である世間的人間関係の叙述につき合うことへの嫌悪を、ふたたび感じている。 そこで、本来、マルセルの思索世界は、驚異的なほど教養と品格の高い、かぎりなく魂の親密を経験させるものであることを、あらためて想起しているところなのである。その親密には高田博厚と同じ深さを感じさせるものがある。その想起が、ぼくにこの覚書を記させた。