初再呈示 奇しくも前節と関連  

 

過ちは、実際の行為の不完全性である。これ自体を必ずしも罪とは言えないと思う。 罪はもっと積極的な加害である。

 

敏感な者は行為の不完全性をも罪だと思うことがある。その気持を大事にせよ、しかし他からの詭弁に注意せよ、と言うしかない。

 

 

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広義での過ちを為すことを恐れてはならない。真実であり愛をもつかぎり、反対のことも為さねばならないのが、状況のなかに生きている人間というものである。ただその過ちを、状況から身を引き離すことのできる刹那(瞑想と祈りの時)には、神に懺悔するのがよい。そうして、この世の状況のなかで生きることにおいても、内部の秩序を保つことができる。実存とは、世界の内にありながら世界の外にあることである、という、二重性(ヤスパースによって定式的に表現されている)は、このようにして、その実践的意味をわれわれが了解し会得し生きるところのものである。 

 

 

孤独とは、世界の外に身を置くこと。この孤独の時をもつことは、実存にぜったい必要である。 

 

 

 

 

他者に慎みのないことは絶対悪である。個の歴史性の外側から判定するいかなる基準もない。その歴史性そのものである個か、この個と運命(歴史性)を共にする必然のある者のみ。 

 ときどき、じぶんが美的感性にすぐれていると思い込んでいる者に、この大罪を平気で為す者らがいる。感性のみでうぬぼれる者は、思惟のみでうぬぼれる者と同様、もっとも下等な品性の者らである。 

 いかなる場合も要求される思慮深さというものは、感性や合理性とはまったく別の修練のたまものだろう。高い品性の基盤はこれのみである。

 懺悔することを知るというのは大変な器量である。 

 

 

 孤独のなかで共にいるものこそ真の伴侶である   神とともにいる