ぼくは、他人の為す罪にたいして敏感だ。ぼくから見て、罪を為さない他人など、殆どいない。ぼくには、他人に、罪を自覚せよ、と言う資格がある。これまでは言ったことはないが、これから言うことはありうる。 

 ぼく自身は、他人において感じるような罪を為すことはほとんどない、なぜなら、ぼくは常に自分を意識している人間であり、ぼくが他人が為すような罪を為すなら、即座にそれを感じ、その場で大反省と大懺悔をしなければいられないからである。 それなのに他人は、ぼくのような意識をもっているようにはとても思えない。だから、もし、他人が、ぼくにも罪を感じるようなことがあっても、それはじぶんの投影であり、ぼくの真実の意識を感じているのではないと思う。他人とぼくとの間には、意識の質に関して断絶があるとぼくは思っている。 

 そういうぼくでも、罪を為したということでなく、懺悔が必要だと感じる。これは、いままで言ってきたような他人が為すべき懺悔ではない。ぼくに必要な懺悔というものがあるのだ。罪に関係なく為す懺悔だ。この懺悔を常に為すことによって、ぼくはよりいっそう純粋な自分でいられるのだ。真の安心とやすらぎを保つことができる。ぼくと神との純粋な関係の実感のようなものがそこにはある。