誠実を尽くすとはどういうことか。そのときの自分の感覚・感情・意識に忠実に言動し、その後もずっとその瞬間の意識を肯定しつづけることじゃないか。誰でもこれをやって正しいとはぼくは思わないが、これはぼくの格率にはなる。ぼくはそういう意味で選ばれた者だ。ぜったいに傲慢と思われるこの選良意識を表明するには、長い経験がかかった。博愛のキリスト教徒が原爆も作ったことを思っても、キリスト教の教義にぼくを拘束する力があるとは思えない。じじつ、ぼくの決断がイエスの言葉に依拠した記憶はない。人間がぎりぎりの決断をするときは、自分自身になりきっているものだ。自分のほかのどんな言葉も介入させない。ぼくも、このことを肯定するまでには長い時間がかかったことを繰りかえし言っておこう。しかも、ぼくの格率を普遍化はおろか一般化する気さえぼくにはない。これはぼくの事実である。ぼくはほかの一般の者とはちがうということが、最初の直感であり、最後の確信である。だからこれはぼくのために書いたのだ。ほかの者の役に立つためではない。ほかの者はほかの者でじぶんの誠実をつくすがよい。ぼくはぼくの誠実を問い詰めてきた。そしてぼくだけの格率に至った。だれにもこれを勧めはしない。人間がちがうのだから。ありますよ、あなたがたとぼくとの間には断絶が。おなじようなことに首肯するようで、ちがうんだ。あなたがたとちがう路を歩いてきた。いま、それがはっきりしている。ぼくは独りであり、借りものの反省や想定はしない。そういうものは、ぼくが独りの路に戻れば、脱落してしまう。どんな聖人の言葉も、路の妨げだ。逆に、聖人の姿そのものが、ぼくの孤独から読み換えられるのだ。

 

 

人間は、かぎられた時間的状況で、誠実であろうと努力できるだけだ。努力には限界がある。言動は決断しなければならない。だから、自分にも他者にも押しつけられるものではない。その時々で然りと否とを言いうるのみであるというのが、イエスの実存的態度である。人間が本物なら、これで正しい。