公式ジャンル記事ランキング:小説・エッセイ・ポエム199位 22131

公式ジャンル記事ランキング:小説・エッセイ・ポエム415位 22128公式ジャンル記事ランキング:小説・エッセイ・ポエム743位 22123

 

2021.12.19

ヤスパース『哲学』第二巻「実存開明」翻訳

 

 

(1頁)

 

第一章

 

実存

 

世界現存在と実存 (1頁)

 

世界現存在における可能的実存の不満 (4頁)

1.実存の存在への懐疑 — 2.可能的実存の表現としての、現存在への不満 — 3.世界現存在を突破してゆくことが、実存開明では確かめられる

 

実存開明の諸方法 (9頁)

1.限界へと導くこと — 2.心理学的・論理的・形而上学的な語りにおける客観化 — 3.実存開明のために特有な一般的なものを創出すること

 

実存の現象の多義性、ならびに、実存開明の働きをする諸言表が誤解される可能性 (19頁)

 

 

世界現存在と実存

 

 

 私が、認識という定位〔方向づけの行為〕を通して、万人が必然的に承認するような知の内容として私が近づくことのできるもの一切の総体を、「世界」と名づける、そのような場合、つぎのような問いが生じる。すなわち、あらゆる存在は世界存在をもって汲み尽くされるのか、そして、認識する思惟は世界定位をもって止むのか、という問いがそれである。神話的な表現の仕方では「魂」とか「神」とか呼ばれ、哲学的な言葉では「実存」とか「超越者〔超在〕」とか呼ばれるもの、そられは「世界」ではない。それらは、世界の内なる諸事物と同じような意味で知られるものとして、在るのではない。だが、それらは、他の仕方で在り得るのではないだろうか。それらは、知られはしなくとも、無ではなく、認識されない場合でも、やはり思惟されるのではないか。

  ここで、「世界存在全体と向かい合って何が存在するのか?」、という問いを受けて、哲学的な根本決断が生じる。

  現存在の現象としては存在しない が、存在し得るし、存在すべき であるもの、それゆえ永遠であるかどうかを、時間のなかで決断するところのものが、存在する。 

 このような存在こそ、実存としての私自身なのである。私が私に対して自ら客観となることがない限り、私は実存である。実存として私は、私が「私の自己」と呼ぶものを、見ることができなくとも、独立的なものとして知るのである。実存の可能性から私は生きるのであり、実存の実現においてのみ私は私自身なのである。(2頁) 私が実存を捉えようとすると、実存は私から消えてしまう。実存は心理学的な主体ではないからである。私が自分にとって客体となりつつ、私を素質や本性として把握する場合よりも、実存の可能性においてこそ、私は一層深く自分が根を張っていることを感じる。実存は、主観性と客観性の両極性において現存在として自らに現象するところのものである。しかし実存は、対象として何処かで与えられていたり、観察にたいして根底に存するものとして推定されたりするような何かの現象なのではない。実存は、ただ自分にとってのみ、そして他の諸実存にとってのみ、現象なのである。 

 それゆえ、私の現存在が実存なのではなく、人間が現存在において可能的実存なのである。現存在ならば、そこに在るか在らぬかであるが、実存は可能性であるゆえに、選択と決断によって、自らの存在へと歩を進めるか、自らの存在から歩み去って無へと没するかである。私の現存在は他の現存在と比較し合って、その世界存在における範域が狭かったり広かったりする違いがあるだけであるが、実存は他の実存と、自らの自由の根拠に基づいて、本質的な違があるのである。現存在は存在としては生きて死ぬだけだが、実存はいかなる死も知らず、飛翔か没落かを懸けて自らの存在のために立つのである。現存在は経験的にそこに在るだけだが、実存は自由としてのみ在る。現存在は端的に時間的であるが、実存は時間のなかにあって時間以上のものである。私の現存在は現存在の全部ではないかぎり、有限であるが、自分にとっては自らの中に閉じられている。実存も自分にとってのみ在るのではなく全部でもない。なぜなら、実存は他の実存と関係づけられ、そして超越者と関係づけられてのみ、在るのであるから。この、端的に他者である超越者の前で、実存は、自分自身によってのみ存在するのではない自分を意識するのである。現存在は、無際限なものの相対的完結として無限と呼ばれうるのにたいし、実存の無限性は、開かれた可能性として、完結しないものである。

現存在にとって、可能的実存に基づく行為は、怪しげなものである。なぜなら、現存在は時間のなかで自らの存続のために配慮しなければならず、無制約的なことには反対せずにはいられないからである。無制約的なものの路は、現存在にとって喪失をもたらし、破滅へ通じるかもしれないので、存続への配慮にとっては、疑わしいものなのである。現存在への配慮は、実存的な行為を、現存在自身の存続の諸条件の下に置きたいのである。しかし、可能的実存にとっては、現存在のほしいままな奪取と享受こそ、すでに没落なのである。可能的実存の側では、自らの現存在現実を、その許で実存が自分自身を無制約的なものとして把捉するような諸条件の下に置きたいのであるから。さて、ほしいままな単なる現存在意志は、自らの現存在が、残り無く挫折する現実として自らに明らかとなる時、絶望せずにはいられなくなる。

 現存在にとっての満足は世界となることであるが、可能的実存にとって世界は、その上で実存が自らに現象する地平なのである。

(3頁)

 知られたものとしての世界は疎遠なものである。私は世界にたいして距離をもって立つ。悟性にとって知られるものと経験的に体験されるものは、ただそれだけのものとしては、私を突き放すものである。それらは私にとって他なるものである。それらにとって私はどうでもよいものであり、現実的なものにおいては優勢な原因性に、妥当的なものにおいては論理的な強制に、委ねられている。そこでは私は庇護されていない。なぜなら私に親和的なもののいかなる言葉も聞かないからである。私が世界をより決定的に理解するほど、それだけ一層私は、世界の中で自分を故郷喪失者と感じるのである。世界は他なるものとして、単に世界として、慰め無きものであるから。世界は、無感情であり、慈悲心が有るでも無いでもなく、法則性に服しているか偶然の中でよろめいているかであって、自分について知ることはない。世界は無人格なものとして私に歩み寄り、個別的なものにおいては説明され得るが、全体としては決して理解され得ないので、捉え難いものなのである。

 とはいうものの、私は世界を、ちがったふうにも知っている。その場合世界は私に親和的なものであり、私は世界の中で我が家にいるのである。まさに、世界に庇護されている。世界の法則性は私の理性のそれである。私は世界の中で自分の住居を整え、自分の道具を作り、世界を認識することによって、安堵する。世界は私に語りかける。世界の中で生が息づき、その生に私は参与する。私は世界に献身し、世界の中にいることで全く私自身の許にいるのである。世界は、慎ましく居合わせているものにおいては私の故郷であり、その広大さにおいては私を魅了する。世界は近きものにおいて私を無疑念にし、その遙かな諸々のなかへと私を引いてゆこうとする。世界は私の期待する道に就くことはないが、その予期せぬ充実と不可解な頓挫によって私を驚かすのであり、私は没落のなかですら、なお世界への信頼を保持するのである。 

 これはもはや、単なる認識としての定位において私が知る世界ではない。しかし、世界の把捉において私を満足させるものは、二義的である。すなわち: 一方で、世界は私の現存在欲求を満たすものとして渇望される。生への盲目的な意志は世界へと私を誘惑し、世界についての私の思いを裏切る。たしかに、私が現存在するかぎり、世界を渇望することは私には避けられないことである。だが、この渇望が絶対的な衝動になると、私にとって破壊的なものとなる。この衝動に抗するものとして、私は自分の可能的実存からの呼びかけを聴く、私がそこへと崩れ落ちる危険がある世界から自分を離せ、という呼びかけを。— 他方で、私に親和的なものとしてとても身近な世界のなかで、私はひとつの超越することを遂行する。私が世界を観、思惟し、世界のなかで行為し、愛し、世界のなかで生産をし、形成をする、そのすべてにおいて同時に、私は、私に語りかける超越者の現象として、他なるものを捉えるのである。そのようなものとしては世界は知られるものではなく、あたかも存続するものとしては自らを失ったかのようである。このような世界はその時々と人物に応じて、また私の内的態度に応じて、変化する。この世界は、誰にでも、何時でも、等しく語りかけるものではない。(4頁) 世界の語りかけを聴こうとするなら、私は世界にたいして準備していなければならない。私がそこへと超越できたであろうものは、私が歩み寄らなければ、身を引いてしまう。なぜなら、そのものは、自由にとってのみ、自由を通してのみ、在るのであって、全く何の強制的なものも持たないからである。

 それゆえ、可能的実存は自らを世界から区別する。それは、そうしてこそ本来的に世界の中に歩み入るためである。可能的実存は自らを世界から引き離すが、そうしてこそ、世界が世界だけで在り得るよりも以上のものを、世界をあらためて把捉することにおいて獲得することになる。実存は、自らの実現の媒体としての世界からは引き寄せられるが、単なる現存在の中に没落する可能性としての世界からは突き放される。世界と実存とは、緊張関係にあるのである。両者は一つになることも出来なければ、互いに別れることも出来ない。

 この緊張関係が、可能的実存から哲学することにおいては、前提されるのである。可知的なものとしての世界と、開明されるべきものとしての実存とは、いわばディアレクティックに、区別されては再び一つに統合されるのである。

 知られた存在としての世界存在は、誰にでも妥当するものであるから、一般的なものである。この世界存在は、この中で共同体を持って同じ事柄を志向しているあらゆる理性的存在者にとって、共有のものである。この世界存在において妥当するのは、現実的なものの無際限性の中で個別的なものとして或る規定に嵌るものである。

 それ自体としての実存は、決して一般的なものではない。それゆえ、実存は、或る一般的なものに包摂され得る事例という意味での特殊なものとして存在するのではない。しかし現象において客観的となることで、実存は同時に、史実的な特殊性を有する個別的存在なのである。この史実的特殊性は、一般的な諸カテゴリーの許で更に概念化されるにしても、ただ、個別者そのものはその事実性の無際限性のゆえに汲み尽くされず、それゆえ言表され得ない、ということが、限界を置いている。しかしこの個別的存在は、そういうものだからというわけで、実存であるのでは、決してなく、さしあたりは、世界現存在の可視的な富にすぎない。この富は、いかなる知によってでもなく、問いを発する者の自己存在によってこそ、その実存的な根源性に関して、語り掛けられ得るのである。

 実存と世界が一つとなることは、見渡すことのできない過程であって、この過程は、自らこの過程の中に自分のために立つ者だけに、確信され得るのである。

 

 

 世界現存在における可能的実存の不満 

 

 1.実存の存在への疑念 —— 実存が現存在、世界そして一般的なるものと対立的に際立たせられると、何も残っていないように見える。実存がいかなる客観にもならないのなら、実存を思惟において捉えようと欲することには、望みがないように見える。このような思惟は、決して成果や存続を獲得し得ないのだから、実存を思惟する試みは、自分自身を否定せざるをえないように見えるのである。(5頁)人は実存の存在に、あらゆる意味で疑念を持ち得るのであり、通常の人間悟性が、対象的なものこそを現実的で真なるものと見做して、これに依拠することを要求するのを、放任し得るのである。それでは、実存を思惟するという試みは、妄想から湧いたのであろうか? 

 実存への疑念が終了することはない。実存については、現存在として知られることもなければ、実存が妥当性として存続することもないからである。実存が否認されうるのは、あらゆる哲学的思想の内容が、自らの対象を呈示することのできる個別的な対象的認識との対比において、否認されうるのと同様である。決して私は、私自身について、私がひとつの存立であるかのように、私が何であるかを、言うことはできない。私について、客観化して言われうるあらゆることは、私の経験的な個体性に関しては、妥当なものであるが、この経験的個体性は、実存としての私自身の現象であり得るものであるから、やはり、究極的には規定するものである心理学的な分析からは、身を引いてしまうものなのである。私についての私の知のこのような限界は、間接的に、他のものを指し示すものである。この他のものの直観をいわば強奪することはできないのであるが。それゆえ、実存開明は、なるほど解放するものではあるが、知によって充実させるものではない。実存開明は、私にとっての空間を獲得するものである。しかし、客観的に捉えられる或る存在を指し示して実体を提供するものではない。

 このように実存は、ただ客観を扱う悟性を介して実存を問う者には、近づけないものであるから、いつまでも疑念に委ねられたままである。しかし、いかなる証明も私をして実存の存在を承認することへ強いることはできないからといって、私は思惟することで終わりなのではない。対象的に知り得ることの諸限界を超え出て、もはや合理的に洞察し得るようにはならないひとつの飛躍によって、私が辿り着くものがあるのである。哲学することは、この飛躍によって獲得されるに至るひとつの地点で、始まりかつ終わるのである。実存は、哲学することの目標ではなく、哲学することの根源なのである。つまり、哲学することは、実存において自らに就くのである。根源は、それを越えて私が更にそれ以前の始まりを問いつづけることになるような始まりではない。また、私が絶望するしかないような私の恣意でもない。さらに、それ自体信用のならない無際限な量の諸動機からの帰結としてのひとつの意志でもない。そうではなく、根源とは、私が非知のなかで哲学しつつ私自身へと到来することによって私がそこへと超越するところの、自由としての存在なのである。根源への疑念のなかで哲学することの寄る辺の無さは、私の自己存在の寄る辺の無さの表現であり、それでも哲学することの現実は、この自己存在が跳躍を始めることなのである。それゆえ、哲学することは、実存の起動を前提とするのである。実存は、始めはただ、意味と支えを求める曖昧な努力であり、疑念と絶望として、自らの可能性に関して退却するが、その後には、理解し難い確信として浮上する。このような確信こそが、哲学することにおいて自らを開明するのである。

 

(6頁) 

 

 2.可能的実存の表現としての、現存在への不満 —— 私が理論的あるいは実践的に世界現存在がすべてだと認容しようとするときに、私を襲う不満は、実存を世界現存在から際立たせて、この対照が真理であることを私に感じさせる、消極的な根源なのである。世界がいかなる知においても完結せず、現存在をどんなに正しく整備しようとしても究極的な整備は不可能であり、世界における絶対的な終極目標なるものも、万人にとって一つである目標として明らかになることはない以上、私のもつ知が明晰で、私のなす行為の意味が誠意あるものである程、ますます不満は決定的なものとならざるをえないのである。

 この不満は充分に根拠づけられるものではない。この不満は可能的実存の存在の表現なのであり、可能的実存は、自らの不満を言表するとき、なにか他のものを了解しているのではなく、自分自身を了解しているのである。それゆえ、不満は、知る能力が無いことでもなければ、私が無の深淵の前に立つような、世界の中でのあらゆる私の実践は究極的には虚しいということでもなく、私の自己生成のための棘となるような不満足なのである。

 根拠の分からない不満は、単なる現存在であることから生じてくる。この不満を伴って私は、可能的なものの孤独の中へと入るのであるが、この孤独は、この前ではあらゆる世界現存在が消え去ってしまうような孤独なのである。この孤独は、本当の存在認識に絶望している科学者のもつ放棄感情でもなければ、あらゆる行動の意味に迷ってしまった活動家の意欲喪失でもない。さらに、独りでいたくない自己逃避的人間の心痛でもないのである。そうではなく、この孤独は、これらすべての諸々の幻滅を経た、現存在するもの一般への不満なのであり、この不満こそ、私自身の根源から存在せよという呼び掛けなのである。私は、現存在にしっくり合わないことの状態であるこの不満によって、私自身を世界から隔て置くのであるが、そこから再び、あらゆる幻滅を克服して、私自身の自由によって、世界の中へと、他者である人間のために帰還するのである。このような人間と共に私は根源を確信するのである。だが、このことを私は、熟考する思案のなかで理解するのではなく、この思案に刺激されながらも、私の行動の現実とその挫折のなかでこそ、理解するのである。

 このような克服の可能性から初めて、充実というものが、この可能性が無ければ廃棄されることのない理論上のと実践上の行動のもつ相対性から、湧き上がるのである。

 一般的なものを理論的に知ること、諸々の世界像を俯瞰すること、現存在の諸形態を観察すること、そして、これらすべてを諸々の理念の許で先へ先へと拡張すること、このことどもは固有の深い満足を提供するものではある。しかし、かの不満からは、つぎのような意識が私に生じてくる、(7頁)すなわち、この世界全ては、その一般性と妥当性にもかかわらず、存在の全てではない、という意識である。私が世界のなかに立っているのは、その働き手としては替わりが居るような共同研究者とともに、個別事象のすべてを知ろうとするためではない。そうではなく、とともに、存在そのものへと方向づけられて、根源的に知ろうとするために、立っているのである。私の心を捉えるものは、問いと応答から成る共同体なのであり、そして、客観的に妥当なものを介してこれを越えて、間接的に伝達されるところのものなのである。

 私が、実践的な生において、様々な課題を客観的なものとして私の前に見いだして捉え、その意味を問うとき、不満が、世界のなかで理解可能なあらゆる意味を突き破って出てくる。私がその中において私の居場所で私の任務を行うところのひとつの全体という理念をもって、それらの課題を意識的に捉えて、心の糧とする場合ですら、可能的実存の意識は安らぎに達することはない。ひとつの全体のなかでの充実、という考えは、単に相対的な考えにしかならないのであって、ひとつの誤導をもって諸々の限界状況が隠蔽されるのと同じことなのである。この限界状況こそ、常にあらゆる全体性を破砕するものなのである。全体という理念が、その都度、事象が全くの偶然事の諸々へと粉々に砕け散ることから救う一歩を為すとしても、それでも、全体が見渡し得るようには決してならず、全体はけっきょく再び、世界現存在の偶発性へと引き渡されることになる。全体のなかの一つの場所というものは、特定のこの存在の身体の部分であるという意義を、個に与えるものであろうが、この場所というものは、常に疑わしいものなのである。だが、個としての私には、一つの全体へとは決して秩序づけられないものが、在り続けている。すなわち、私が、私の行動は無意味であるかもしれないという虚無的な考えを前にして目を閉じることがあっても、様々な課題の選択や、業績を生もうとする努力のなかでは、同時に、ひとつの他の根源が作用するものなのである。私が、有限な課題のために私の経験的な個を捧げても、私は可能的実存として経験的な個以上のものであり、政治的・学問的・経済的な生活のなかで様々な業績を展開しながら、客観的で非人格的な事象性以上のものなのである。実存は、自らの本質を、歴史的過程としての世界現存在にこのように参与することによってのみ実現しながらも、自らを越え包む自らの世界の暗い根拠に対する闘いのなかに立っているのである。この暗い根拠のなかで実存は自らを見いだし、この暗い根拠に対して実存は、世界のなかで挫折するとも、本来的存在の永遠性において自らを主張することを欲するのである。

 ただ可能的実存の不満からのみ、世界の中でのあらゆる事物を単に知り観察することへの理論的次元での不満も、ひとつの理念的全体の中でのひとつの課題を単に満たすことへの実践的次元での不満も、言い表わされて了解されることもできるのである。この不満は決して、何らかの普遍妥当的な諸根拠から動機づけられるものではない。(8頁)この類の諸根拠はむしろ、理念に貫かれることで精神となる世界現存在の全体性の内での満足と安らぎへと誤導する傾向を持っているのである。可能的自己存在の不満は、世界現存在を突破して、個としての人間を彼自身へと突き戻し、根源へと投げ入れてしまったのである。そしてこの根源から彼は自分の世界を摑み捉えて、実存として、他の人間と共に、現実的なものになり得るのである。

 

 3.世界現存在を突破することは、実存開明において確認される —— 私が自分の不満を明らかにしようと欲し、その際、ただ私を際立たせたり除外したりしようとするのではなく、ここで問題なのは何なのかを積極的に思惟しようと欲するなら、私は実存開明に取り掛かることになる。

 実存が、現実に遂行された世界現存在の突破であるなら、実存開明は、この突破の、思惟による確認である。突破は、可能的実存から、実存の実現へと向けて生じるものであるが、可能性の限界を放棄できるものではない。行為そのものにおけるこの現実は、客観的に実証されるものではないが、実存にとっては本来的な現実なのである。哲学的な開明は、何か或る側面からこの突破を照明するあらゆる思想を探求するだろう。すなわち。

 a)突破は、世界現存在の諸限界に接して為される。思想はそのような諸限界まで導き、限界経験と、そこから生じる、現前への呼び掛けとをもたらす。世界内での諸々の状況から出発して、この思想は、『諸々の限界状況』の中へ導き入れる。経験的意識から出発しては、『絶対的意識』へと導き、目的に制約された諸行為から出発しては、『諸々の無制約的行為』へと導く。

 b)とはいうものの、限界に接しての突破は、世界の外に超出することへ導くものではなく、世界の内において自らを遂行するものであるから、哲学的な思想は、世界内での実存の現象を追跡する。すなわち、『歴史的意識』と、実存の現存在の『主観性と客観性との緊張』とにおいて、追跡するのである。

 c)突破は、ひとつの根源から為される。世界の内で生起するのは出来事のみである。しかし突破においては何かが私によって決断される。実存にとって確かであるのは、実存には、どんな本来的に存在するものも、決断されずに時間現存在内の現象としてあり続けることはできない、ということである。というのは、私は、諸事物の経過をして私の上に決定を及ぼすに任せることがあるからであり、その場合には、全く何も決断されずに、すべてはただ生起するのみである故に、私は私自身としては消え去ってしまうからである。そうでない場合があり、この場合には、私は存在を、存在は決断されねばならないという意識をもって、自己存在する根源から掴み取るのである。(9頁)思想は、根源へと方向づけられながら、『自由』を開明しようと努める。

 d)しかし、決断されるべきであるところのものは、いかなる世界知によっても根拠づけられないものであり、ただ世界知を媒介として掴み取られるのである。世界現存在は実存開明によって遍く照射されるが、問題であるところのものが今や知られる、といったふうにではなく、諸々の可能性が感じられるようになる、というふうに照射されるのであり、これら可能性を通して、真理というものが掴み取られ得るのである。この真理は、私が真理となることによって存在するような真理である。『私自身』と、ただ『交わり』においてのみ存在するものとしての自己存在は、全実存開明にとって根本的な諸思想のなかで触れられるよう努められる。

 

 

実存開明の諸方法 

 

 可能的実存が単なる世界現存在にたいして自らを際立たせること、ただの世界としての世界にたいする可能的実存の不満、決断において自らの現実性へと突破するのだという意識、これらすべてのことどもは、ただ、知の限界を意識にもたらすのみであるが、これによって思惟は、差し当たり、ひとつの空間の前に立つことになる。この空間のなかで何も見られるのではないのだが。実存は、世界の内でのひとつの客観ではなく、いかなる妥当な理想的対象でもない故に、実存を開明するための思惟手段は、ひとつの固有な性格を有しなければならない。

 実存開明の思惟は、実存することの現実へと方向づけられている。この現実は、実存の歴史的状況においては、自己自身へと超越することなのである。だが、開明を為す思想は、手段として対象的思惟を必要とする。この対象的思惟を通して、この思想は、かの、実存そのものの為す根源的な超越へと、超越するのである。実存開明においては、哲学的思想そのものは、諸々の純粋な対象性のなかで単に思惟されるだけならば、自らの超越する働きを奪われて、誤解されているものである。しかしこの思想が、超越しつつ思惟されるならば、この思想は、実存的現実の遂行ではないにしても、実存的可能性遂行なのである。この思想がそのような可能性になったならば、この思想は、第一の変換段階において我有化されている、すなわち自分のものとされていることになる。しかし、実存することそのものは、ただ、事実行動の現実としてのみあるのである。可能性の段階での我有化は、内的行為において、我有化の第二の変換段階を、初歩的に遂行することがあるが、この場合でも、私に単に羽ばたきをさせるものと、そこで私自身が現実に生成するところのものとは、区別されねばならないことに変わりはないのである。我々は、哲学しつつ、実存へとただ向かうのであり、まだそれではないが、我々の存在を思惟するのである。それゆえ、私が自分を、このような諸思想のなかで、自分の可能性を思惟する者として理解しているならば、たしかに私は、これらの思想を既に、他に譲ることのできない仕方で我有化していることになる。(10頁)そのような我有化なくしては、実存を開明する諸思想は、単に一般的に思惟されるものとして、そもそもいかなる意味も持たないであろうし、それどころか理解不可能なままであろう。そうではあるが、この最初の我有化は、これあって初めて、本来的なものがやっと要求されるようになるものなのであり、この本来的なものは、この我有化を通してただ感じられはするが、まだ現実にはなっていないのである。

 実存を開明するところの哲学することにおける、諸々の存在言表は、自由を言い当てようとするものである。超越する働きである思想において、これら存在言表は、自由からして存在し得るところのものを、言表しようとするのである。これらの存在言表の真理基準は、言表されたものの正誤がそれに従って判定されるような或る客観的尺度でもなければ、言表における思念が的中しているか外れているかするような、或る所与の現象でもない。問題の真理基準は、そのようなものであるよりもむしろ、肯定するか拒絶するかするところの意志そのものなのである。私は、自由として、私自身を通して吟味するのである、私がただそれであるのではなく、それであり得るところのものを。また、私がそれであろうと欲するが、ただ意識の明るさにおいてのみ欲し得るところのものを。哲学することは、決定的な諸点では、開明そのものとして、既に自由の意志表明なのである。

 あらゆる言表の形式は、対象的な諸内容に結びつけられており、そのかぎりで、ひとつの一般的な意味に結びつけられている。だが、言表行為において実存開明が求められる場合、そのような意味の一般性を超出して届こうとする、実存開明的な意味は、もはや一般的に洞察できるようなものではない。それゆえ、実存を開明する思惟と語りとは、一般的な通用性を持つと同時に、全く個人的な、個々の人間毎の充実を持つのである。単に一般的なものとしての一般的なものは、ここではいわば虚ろなままであり、誤導する意味しかない。一方、実存は、発語が無ければ、つまり、なにか或る一般的なものでの表現が無ければ、現実性が無いままであろう。自己確信が無いからである。

 実存開明は、実存が有する、実存開明における一般的なものへの関係に目を向ける。実存開明が開明するところのものであり、自己了解の可能性を通して同時に共同創造するところのものから出発して、実存開明は、一般的なものである思想のなかで、それ自体はそもそも一般的にはなり得ないものを、言い当てようとする。実存開明の諸思想をもって、実存開明は、この一般的なものを思念するのでは全くなくて、この一般的なものにおいて、実存へと超越するのである。実存は、ただ私自身なのであり、また、交わりにおいて私にとって私自身と同様対象ではなくて自由であるところの他者なのである。というのは、一般的なものである諸思想が、超越する働きとしての意味を実存開明として有するはずのものならば、実存は可能性としてはそこに現前しているにちがいないからである。このような諸思想は、一般的なもののなかで運動しつつ、一般的なものの限界の上に立つものである。このような諸思想のなかで自らを告知する哲学的エネルギーは、単に条件にすぎなくてそれだけでは欺くものである論理的明晰性のために努力するものではなく、問いや思いや諸々の直観を効果的に配列するために努力するものなのである。(11頁)この配列の効果を通して、それらを一緒になって思惟する者の内部で、自己存在の火花が点火されるのである。この火花を直接に伝えることは不可能である。どんな者も自らに基づいて自分自身なのであり、そうでなければ全然自分自身ではないからである。 

 可能的実存は、このようにして思惟において自らを捉えると、自らの思惟の一般的なものを、妥当なものと見做す。この一般的なものは可能的実存によって既に充実されているからである。しかし可能的実存が同時に知っていることは、万人にとって同一なものとして知られる端的に一般的なものは、単なる明瞭性という別の性格を持っているということである。実存開明の思惟の形態としての一般的なものの言表においては、可能的実存は自分自身と他の可能的実存へ、相ともに自己へ至るために向かう。可能的実存が他の可能的実存へ向かうのは、科学的認識のように万人に向けてなのではない。随意に代替できるものとしての万人が、彼、可能的実存に、同意し得るのではない。彼に同意し得るのは、ただ、単独な個人のみであり、この者がそのような単独な個人であるのは、この者が、この者自身のなかで、一般的なものにおいて直接に言表され得ないが、補完的な側面としてこの一般的なものに属しているところのものを、可能性として観ているかぎりにおいてなのである。というのは、実存開明の思惟には二つの側面があり、その一つの側面は、それのみでは真ではないもの(単に一般的なもの)であり、もう一つの側面は、それのみでは不可能なもの(言葉を持たない実存)なのである。この二つの側面は、全体となって、もはや方法的には生み出され得ない表現において、幸運な一致を見るのである。このような実存開明の思惟は、真理として吟味されるべきものであるかぎりでは、そして、関連性をもって叙述されうるかぎりでは、たしかに方法的なものである。しかしながら、この思惟を担っている定式的な諸表現は、交わりへと押し迫る可能的実存こそが、統括して握っているのである。この思惟は、そこでは言わば二つの翼が打ち羽ばたく思惟であって、この思惟が成功するのは、ただ、この二つの翼、すなわち可能的実存と一般的なものの思惟とが、本当に打ち羽ばたく場合のみであるような、そういう思惟である。二つの翼の一つが効かないと、飛翔しようとする開明行為は、地に落下する。哲学することとしての開明行為においては、その両翼であるところのもの、すなわち一般的なものと私自身とが、命中し合うのである。 

 実存の開明への着手は、単なる悟性にとっては望みのない試みであるに留まる。問題となっているところのものが、いかなる対象でも、いかなる一般的なものでもないところでは、この悟性にとっては、認識されたり、知られたり、あるいは開明されたりし得るような如何なるものも、もはや存在しないように見える。ひとつの思惟が同時に、この思惟を対象無きままに充実させる非-思惟でもあるとするなら、見かけ上は不可能なことが求められることになる。この見かけ上は不可能なことが、にも拘らず如何にして起こりうるかは、方法的に、実存を開明する思惟における一般的なものの三重の機能に即して理解される。すなわち。 

 1.限界へと導くこと。否定的方法においては、諸々の対象は、実存ではないものとしてそこから離れる目的で、扱われる。人は対象的な領域を踏破し、一歩一歩と限界へ至る。(12頁)その限界ではいかなる対象ももはや浮上せず、ただ空虚のみが、他の根源から充実されないかぎり、留まっている。ここには、超越することへの呼びかけがある。この超越することが、一般的なものを超出する飛躍において生じる時、この超越することは、第二の羽ばたきなのである。これに対して第一の羽ばたきは、そこにおいて対象が単に思惟されただけのものであったのであり、この対象は、実存を掴み取ることにおいて思念されたものではないという理由で、排除されることになるという仕方で、思惟されたのである。議論は真理を強要することはできない。議論は世界現存在の突破において漠然と可能的実存に的中しようと欲するのみである。

 2.心理学的・論理的・形而上学的な言葉で客観化すること。— 対象的なものは、実存が思惟される場合でも、必然的にそのなかで語られることになるところのものである。このような対象的なものは、ただ排除されるようなものではなく、ひとつの客観化として遂行されるものであり、この客観化において可能的実存は、この客観化と同一化することなく、自らを再認識するのである。対象的なものが同時に対象的なもの以上なのである。なぜなら、この対象的なものは充実されて、可能的実存の一側面となったのであるから。心理学・論理学・形而上学の対象性が、一般的なものとして、哲学的な実存開明の一翼となるのである。

 哲学的思想においては、現実となったものの動機と意味がどのようにして現象しているかが、心理学的了解という手段を用いて言表される。実存そのものは了解不可能である。実存は、それによって実存が一般的なものの領域の中へと入り込むところの、了解可能性の地平において、接近可能なものとはなるのであるが、しかし実存そのものは、自己了解の過程であるのであって、この、過程であるというのは、実存は了解行為の限界に臨んで初めて、再び根源的に改めて自らに立ち現れる、という仕方においてなのである。そのようにして、了解可能性の地平は、同時に、実存そのものの一側面ではあるのであり、そこにおいて共振しているのは、たしかに実存なのである。それでもなお、実存そのものを喪失しないためには、この了解可能性という一側面は、再び自らの限界まで追い詰められねばならないところのものなのである。つまり、了解不可能性としての実存は、了解可能なものにおいて自らにとって明るくなり、了解可能性の最大限を通って初めて、自らの本来的な了解不可能性を覚知する、ということなのである。— 哲学的根源からする心理学的了解行為においては、次から次へと様々な可能性が構想されて争い合う。これらの可能性は様々な路として提供されるのであり、そのなかから選択が為されねばならないのである。この構想は、この、可能性としての選択を通して、実存を開明するものであり、このような意味での選択においては、選ばれた可能性はまだ思惟されただけのものとして一般的なものなのである。この一般的なものを了解することは、実存的選択そのものではあり得ないにしても、実存的選択の表現ではあり得るのである。

 論理的な規定行為においては、可能的実存について、諸々の抽象的な思想を通して語られる。これらの思想は、しかし、ひとつの対象を捉えるのではなくて、使われては再び廃棄され、このことによって、ひとつの開明行為としての機能を獲得するのである。(13頁)ひとつの知が打ち立てられるかに見えるが、この見かけ上の知は、非知なのであり、とはいえ、現前的なものの明るい非知として、遂行されるものなのである。諸々の論理的規定は、一般的なものであり、非知は、可能的実存の、論理的規定を初めて充実させる運動のなかにあるのである。諸々の議論は、その最後に真理が成果として立っているような直線的な連結において経過するのではない。思惟は、空虚な議論においては砂漠化せざるをえないであろうが、実存的な意味によって充実された議論としては、この思惟の挫折の仕方によって、可能的実存の自己開明の表現であり得るのである。このような思惟は、諸々の根拠によって証明しようと欲するような力があるのではなく、ただ、訴え掛けつつ納得させようと欲する力があるだけである。 

 後戻りさせ掘り下げることは、同時にひとつの現前化をもたらすものであるが、この行為の手段が、客観的には循環論法と見做されるものなのである。この循環においては、対象的に言表されたものは自らの根拠を失い、消え去るのであるが、その一方、まさに問題であるところのものは、いわば生き残るのである。たとえば、私がこう言うとする、私は実存としてはただ他の実存を通してのみ在る、この他の実存もまた私を通してのみ在るように、とか、それゆえ実存はそれ自体として在るのでは全くなく、ただ交わりを通してのみ、交わりにおいてのみ、在るのである、などと言うとする。その場合、そのような言表の意味は、対象的に妥当な真理のように見做されてはならない。「私」と「他者」とが交わりにおいて互いに相手を通して在るということは、対象的に思惟されるなら、単に循環論法としか見做されない。勿論、それぞれ両極の一極として言わば部分である双方が、誤って、相互作用関係にあるがそれ自体として固定的に存在しているものと思惟されるなら、なるほど、その両極の間の相互交換や相互影響のもつ客観的に考察可能な諸経過について様々に主張することは、可能となる。この場合の対象的に理解可能な、両者の相互性のあり方は、単に心理学的な、そしてそういうものとしてなら研究可能な、現存在に当てはまるものであろう。このような現存在としては、「私」と「他者」は、二つの事物であり、この間での相互作用によって両者は変化するものである。しかし、この「私」が実存する存在である場合には、「私」は、そのように孤立して予めそれ自体であるようなことは決してなく、「他者」と共に初めて在るのである。交わり、あるいは交わりにたいして準備していることは、現象における『私自身』の誕生の瞬間になるのである。それゆえ、実存する者(単に現存在する者ではなく)として存在する二者という前提が欠けると、この二者の相互性という思想は、単に対象的な思想となって無意味となってしまう。実存に即する何ものからも、相互作用を通してであれ、何かが生成するということはあり得ないのであるから。しかし、このような諸々の循環論法を使うことは、交わりにおいて存在する実存を、相互作用関係にある生命としての現存在の認識可能性から区別して説明を試みるものであるのである。交わりに基づく存在というものは、対象的な知にとっては無であるが、相互性によって存在するものを様々に規定することのなかで、この諸規定のなかでこの存在へ向って超越がなされるかぎり、間接的に言表可能となるはずなのである。(14頁)この試みは、対象的には自己内倒壊するものでありながら、交わりにおいて遂行された自己存在の確信を開明するものを、呈示するのである。

 実存を諸々の一般的なカテゴリーを通して言い当てようとする、もう一つのやり方は、言表の論理的矛盾であり、そのような言表において、しかし、現実は現前的となるのである。二つ毎の相矛盾する諸概念の間の緊張は、この二概念が正に概念対として全体となって初めて実存にとっての可能的表現を与えるかぎり、ここでは適切であるその表現機能を満たすのである。この緊張は、悟性が実存を対象的に固定したり定義したりすることを不可能にするのであるから。

 毎回実存的に相属し合う反対概念対とは、たとえば、歴史的意識における時間性永遠性、といったものである。ただの時間性であれば、客観的現実にすぎない。時間的客観性の側面がそれ自体だけで取り上げられるなら、いわばその魂を剝奪されたものである。一方、永遠性それ自体というものは、何ものでもない。つぎに、孤独交わりについて。この二つとも、客観的なものとしては、実存的にそれであり得るところのものではない。客観的には、交わりは、代替可能な主体と主体の間での互いを了解し合う関係にすぎない。孤独のほうは、原子論的個体の孤立性にすぎないことになる。だから客観的には、一方であるか他方であるかということにすぎない。実存的にのみ両方は一つのものであるのである。さて、自由依存性であるが、依存性だけなら、本質的に客観的なものである。自由のほうは、客観的かつ形式的には、恣意として思惟される。しかし、本来的な自由というものは、世界の内で出現する客観的な一現実といったものではないのであり、依存性と自由とが一つとなることなのである。

 さらに、「」を思惟することが、この私を、つぎのような言表によって、直接的な対象として解決する場合、すなわち、「自己が自己へ関係すること」という二重化としてこの直接性の存在を言表することによって、この私を解決する場合、この思惟は、論理的には不可能であるところの何か或るものを、ひとつの存在の現実として言表してはいるのである。すなわち、『私』は二つのものであるところの一つのものであるとともに、一つのものであるところの二つのものである、という言表をすることによって。— しかし私が、このまだ意識一般の次元で考察されている二重化を超えて、可能的実存として自己反省する「私」へと超越するならば、私であるところのものとされるものについての諸言表の間の矛盾は、いわば弁証法的な円環運動の深淵を顕わにする。私は、自分を一つのものであると捉えたり、二つの存在者、多数の存在者であると捉えたりすることで、自分をただ思惟し得るにすぎないのである。これらの思惟された私である存在者は、無限の諸形態において、相互に争い、相手を手に入れようとし、互いに語り掛け合う。自分に言表されたものとして私は、これら諸形態の各々である存在なのであり、また同時に、その各々にとってのその時その時の敵対者である存在でもあるのである。つまり、一つのものであって他のものであり、一つであって一つではない、というようにである。—

 (15頁)諸々の形而上的対象は、絶対的対象性であるような客観性として、初めて形而上学の主題となるものであるが、それ自体、方法的には、実存開明から出発してのみ、掴み取られるものである。とはいえ、この形而上的諸対象は、既に実存開明の内部で、先取りされることが出来るのである(神話的諸形象、一者、超越者が、語られる場合)。その場合、この形而上的諸対象と一緒になって遡行的方向で、実存的意識の開明のための諸々の可能性が出会われることになる。

 3.実存開明に特有な一般的なものを創出すること。— 心理学的・論理的・形而上的な言表は、同時に常に、逸脱の可能性があることを意味している。すなわち、その言表において使用された一般性は、一般性そのものとして遊離している可能性があるのである。— その場合、いかなる実存開明も成功していない。一方で、実存は、そのなかで実存が自らに現象するところの他なるものとしての一般的なものにおいて、共振することが出来るが、衰弱することもあるのである。— この場合、一般的なものは哲学的思想と共にあるのであるが、それでもやはり、一般的なものであるに留まっているのである。

 さて、これらとは異なっているのが、これから述べる本来的な仕方での、実存開明を為す言表である。この言表も一般的なものを通して為されるのであるが、この一般的なものは、世界定位を為す知においては全く出会うことができないものである。いまの本来的な仕方での実存開明の場合の一般的なものの諸カテゴリーには、新たな諸対象を規定する力は無く、したがって、この場合の諸カテゴリーは、単なるsigna〔表徴〕なのである。この場合の一般性は、先の場合のように遊離した一般性として存続することは全くない。たとえば、いかなる実存も、いかなる自己存在も、いかなる自由も、いかなる実存的交わりも、いかなる歴史性も、いかなる無制約的諸行為も、いかなる絶対的意識も、『与えられて』いるのではない。これらの言葉は、その本質が奪われて人間の現存在に関する知の対象になると、何か全く他のものを意味するものとなる。この他のものは、諸々の実存的「表徴」と単にもつれ合っているだけであることが示されるものである。さて、実存開明がこれらの「表徴」を通して言表するものは、可能的実存にとって真の存在であるところのものである。つまり、この存在は、客観であるものの固定化として在るのではなく、私が即座に本来的なものとして欲するのでなければ私には捉えることの出来ないものとして在るのである。なぜなら、私こそが可能性においてその存在であるからである。そのようにして、一般的なものとしての諸「表徴」においてこそ、自由というものが、問題である当の存在そのものの能動性として、言い当てられるのである。この存在の存在性は、この存在そのものに掛かっているのだから。

 実存開明において特有な諸々の「表徴」は、なるほど、外的には言葉として自らの由来を世界定位の諸対象から引き出している — しばしば『実存的』という形容詞によってはっきりと特徴づけられて — 。しかし、その目的は、対象を形成するカテゴリーになることではなく、諸々の実存的可能性に呼び掛ける思想のための記号となることなのである。「表徴」としてのこのような記号には、一般的なものの側面がある。ただしこの一般的なものは、それ自体において既にもはや世界存在ではなく、準備段階であるにしても実存的なものである。「表徴」を本来的に思惟するためには、実存のなかで一般的言表が反響現象を起こす必要がある。(16頁)実存なしには、これら「表徴」はただ空虚であるだけでなく、端的に無なのである。

 そのように実存開明は「自己」について語るが、それはなるほどひとつの一般的なものについて語るかのように語り、その一般的なものの諸構造を表示する。しかし実存開明はただ私自身を的にしようと欲することが出来るのみであり、この私自身は、代替できないものとしての私なのである。すなわち、私は「自我」であるのではなく、私自身なのである。私はなるほど「自己」探求するが、それは自身見いだすためであり、また、自身探求するのは、「自己」ためなのである。私が私自身について問う場合、私が根源的に経験することは、私は私自身について、徹底的には、他との比較になじまないものとして語ることはできない、ということである。「自己」が「表徴」となるのであり、この表徴を通して私は、私自身と「自己」とを一つに捉えるものとして私が思惟するところのものを、言い当てるのである。 — 実存開明は、さらに、実存である多数の自己について語る。しかし実存開明は、この多数の自己を、或る一般的なものの諸例として与えられているもののようには、思念することはできないのである。 — 実存開明は、交わりについて語り、私の交わりのことを思念する。実存開明は、それに対応して、私の自由を、私の歴史的意識を、私の諸限界状況を、思念するが、これらについて、なお、これらを一般的なものとしてのみ、語ることができるのである。

 常に実存的にも現前しているような一般的なものの側面は、それゆえ、ひとつの言葉となって、その言葉のなかでは、実存的な可能性であるところのものが、超越する働きを有する実存開明において哲学することが問題である場合には、共振するのである。実存は、私がただそれであり得るところのものであり、私がそれ自体を見たり知ったりすることは出来ないものであるが、開明する働きをもつ知の有する一般的なものの媒介においてのみ在るところのものなら、私は見たり知ったりすることも出来るのである。とはいえ、一般的なものそれ自体が自らだけで既に一切であるような傾向が生じる場合には、実存は再び、本来の単独者の在り方のものとして、疎外的に際立たせられるのである。したがって、哲学的な実存開明は、なるほど常に、一般的なものの中に移し入れるという仕事であり得る。しかしこの哲学的な実存開明は、自らが一般的に妥当なものとなることはあり得ず、一般的に了解可能なものではあり得ても、ただ可能的実存にとってのみ、そうなのである。

 実存を「表徴」を通して思惟することで、実存の形式的図式が構成される。この図式が実存にたいしてとる関係は、ひとつの客観群の図式がそれら諸客観にたいしてとる関係のようではなく、もしそうなら徹底的に不適切である。実存というものは包摂関係には入れないものであるから、図式はただ、単独的なものとしての実存への共働的な呼び掛けに導くものとして役立ち得るのみである。このようにしてのみ、この図式は意味をもつのである。考察というものは、しかし、いかなる単独的な現実としての実存に的中することもなく、実存であると称する「実存する現存在」という類概念にもまた的中することはない。それゆえ実存の形式的図式に関わるに留まらなければならないのが、考察というものである。考察には、開明行為の諸々の路を試みることのみが許されており、これらの路の途上で、現実の実存は、その路に自らが同行しているかぎり、その都度、自分自身にたいして、より一層意識的になることが出来るのである。可能的実存からのみ、そしてその場合は、唯一的で比較し得ない仕方で、実存開明思想の真の遂行が、充実して為され得るのである。(17頁) それでもなお、そもそも語られるのであるかぎり、このような図式とこの図式の諸要素とは、対象的諸概念の類似物としてどうしても必要である。言葉というものは、対象を意味するのでもなければ、定義され得るのでもないような種類の、多くの語を有している。これらの語は、対象を意味したり定義可能であったりすれば、まさに定義されているゆえに、それら本来の内実を保っているものではないのである(自由、選択、決断、決意、立証、忠実、運命、など)。言葉はまた、哲学することに、実存開明のための力を賦与するものであり、まさに言葉としては実存開明を既に遂行しているのである。

 実存開明の働きをする「諸々の表徴」に固有な一般的なものを判明にするために、我々は、可能的実存の時間的現象を、一般的に妥当する客観性としての時間的現存在と対照させよう。別様に表現すれば、諸々の実存概念を、カントにおける諸々のカテゴリーと対照させるのである。

 世界の客観的現実性と、実存的現実性とは、二つとも、時間において現象する。カントは、彼の説における諸カテゴリーを、客観的現実性の規定のために、知覚の感性的質料に適用したが、この適用は、彼が名づけるところの図式という、時間の仲介項を通して為された。この、客観的現実性向けであるカント説での図式にたいして、これとは全く異質である実存的現実性向けの図式を、向き合わせることが可能である。なぜなら、二つの図式とも、媒介として時間を必要とするからであり、ここには、原理的に対照を成す対峙関係が、特殊な意味深い仕方で存するのである。この対峙関係は、簡潔な諸公式において言表され得るものである。1 すなわち。

 ___

1 カントのテクストから、とりわけ、純粋理性批判の第二版、176-185頁。

 ___

 客観的現実性は諸々の規則の許に存しており、この諸規則の許で認識可能なものであるが、実存的現実性には規則が無く、絶対的に歴史的である。— 現実性の諸規則は、諸々の因果法則であり、生起する事象は原因と結果を時間系列において持つのである。これに反して、実存的現実性は、自分自身の根源から時間のなかで自らにとって現象するものである。すなわち、実存的現実性とは、自由のことなのである。— 実体とは、時間における固着不変なもののことであって、そのままで在り続け、増減しない。実存は、時間的な現象においては消滅したり改めて浮揚したりするものであり、客観的持続に対応するものであるが、これと対峙的に区別する観点からは、時間における立証であるものなのである。— 諸実体間の相互的因果関係(相互作用あるいは共同体)に対峙的に対応するものは、諸々の実存の交わりである。— 客観的実在性は、感官的感覚内容一般に応じるところのものである。一方、実存的現実性は、決断する瞬間における無制約性である。経験的現実性に対して、決断の内実が対峙しているのである。— 量的関係における客観的な規定である大きさに対峙するものは、(18頁)実存の水準あるいは階級と呼ばれるものであるが、これを客観的に規定することは出来ない。— 諸表象と時間内の諸規定との一致としての客観的可能性に対照させられるものは、将来の未決定性としての選択の可能性であるが、この選択は私の実存そのものであるところのものである。— 必然性(全時間における対象の現存在)に対峙しては、瞬間という充実した時間が(無際限な時間の代わりに)ある。時間一般(カントにおいては不変性の形式としての。この不変性の相関物が実体というものである)に対峙して、この充実した時間が永遠の現在としてあるのである。前者すなわち時間一般は、客観的なもの、計測可能なものであり、経験できる現実的なものである。後者すなわち充実した時間は、根源的な意味での自由からする実存の深みなのである。前者の時間は万人にとって手許に存するものとして妥当なものである。後者の時間は選択と決断を伴ってその時その時における現象として生成する。実存は自分の時間を持つのであって、時間そのものを持つのではない。時間そのものなるものは、意識一般にとってのものであり、自分の時間というものは、自分の歴史的意識に沈潜する実存にとってのみのものなのである。— 客観的には、実体としてなら何の新しいものも生じ得ない(経験の統一は廃棄されて、経験そのものが不可能となるだろうから)。これに対して、実存的には、いかなる客観性も究極的に存続するものではなく、時間における実存の諸々の飛躍と新生があるのである。

 カント自身は、実存的な「諸表徴」のかなりのものを、彼の説での客観的諸カテゴリーで吟味して、はっきりと拒否している。たとえば、彼がつぎのような問題を基礎づける場合である。すなわち、何故、世界には、いかなる飛躍も(時間においては)存せず、いかなる隙間も(空間においては)存しないのか、何故、偶然が存しないのか、すなわち、どんな盲目的な中断も事象生起には存しないのか、さらに、何故、運命が存しないのか、すなわち、規則に従った必然性として理解されるのではないような、どんな必然性も存しないのか、という問題である。実際のところ、これらすべては、客観的な世界、すなわち認識の対象としての世界には、存しないのである。しかし、実存について、ひとつの説明が試みられようとするなら、これらすべての言葉は、再び戻ってくるのである。二つの世界が並存しているのではない。一つの世界が存するのみである。説明は、それを対象認識が要請する場合とは全く別の次元のものとなり、そこにはただ見かけ上の並行対峙(表現のために、客観的な諸概念と諸カテゴリーが手段として不可欠であるためにすぎない並行対峙)があるだけの、別の意味と別の諸形式において、実存が、認識されるというのではなく、我々にとって開明されるのである。

 

 

 

〔ここまでで原書18頁の終り。翻訳の(第1部)とする。〕