高田博厚の評論家になろう。その文章を書こう。主題を決めることはない。題は、ただ、「高田博厚」だ。 

 

 

 

 

もうひとつ、ぼくには、課題とすべきものがあった。ヤスパースの真の意味での主著『哲学』の全訳である。過去の失敗訳のあと、新しい訳が出ないのは、真に理解しうる者がいないからである。 ぼくしかこの主著を理解できる者はいないだろう。 

 

 

 

 

そんな二刀流ができるだろうか。よくいま、その気になったものだ。ぼくの留め金のなにかが外れて自由になったのだ。

 

 

生活全体を組み立て直さなければならない。

 

 

自分を一元化して沈潜することが大事だ。翻訳にこだわることは、世間への執着の名残りではないか。

 

(気が向いたら少しずつ訳していったらいいんじゃないだろうか。読みながら。独立して読める章に分割された本だから、気分転換になるのじゃないか、気負わずに。なにしろ理解者がぼくしかいない。ぼくの理解を示しておくのはいいことだ。訳した分だけ、読むに価する章を出してゆけばよい。)

 

(「ヤスパース『哲学』選」とでもしておこう。)