根源的なものというのは、魂と同様、魂と同義語的に、やはり実際に在るんだと、ぼくは経験したんだよ、嬉しいことに。形式的なこととは存在論的・価値的に違う、根源的なものは、実際に存在する。人間の現実を成すものとして。 

 

それは・・・

 

きみとの心の関係がそうなんだ。すくなくともぼくにとってはね。いや、素直に、ぼくたちにとっては、と言って何故いけないんだい? ぼくが、この世の形式に敢えて沿おうとすると、いまではもう、ぼくはかなり厳しい罰を受けるんだよ。根源から離れたことを、形式に敢えてこだわってちょっとやろうとするだけでも、ぼくの存在秩序が乱れるんだよ。その結果、怪我などをする、これはぼくにとって、何故かがよく納得できることなんだ。ぼくの根源的落ち着きが保たれていれば、起こらなかった、とね。それで、人間の生活に必要なのは、「根源的なもの」を持つことだと、以前から解っていたけれど、今回、この「根源的なもの」は、観念的な思いこみではなく、積極的意味でわれわれを内的に拘束する現実的なものであると、得心できた。きみとの関係はあくまで根源的なものであり、そしてほんとうに根源的であることに、ぼくは、恥ずかしい失敗(外からは、何でそれが失敗なのだと、すぐには了解されないだろう)の経験、それによって普段ならしない怪我をした経験によって、はっきり気づいたのだよ。ぼくが想像や観念で遊んでるんではないことに。嬉しいことに、ぼくたちの関係は、現実の秩序のなかにしっかり嵌め込まれている。いわば、神の秩序のなかに。「本来的現実」は存在するもののようだ。この前ではこの世の現実はまるで蜃気楼だ。

 

このことをぼくは、ぼくは何故およそぼくらしくない怪我をしたかを、この二か月、ずっとかんがえてきて、根源からの作用と拘束は、ほんとうのものだ、われわれの現実を成すものだ、と、結論するに至った。ぼくは、根源に忠実であるという意味で、真面目に生きなければならない。これこそほんとうの倫理であり、真面目さというものなのだ。 

 

 

怪我のほうは… 

 

幸いなことに、まず、治ったといってよい状態だよ。ありがとう