欄題の理念について 

 

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検索画像をみていると、日本人には、かなりよい(我慢していることができないではない)表情でも、甘く感傷的で、つまりほんとうに俗から脱していないことがわかる場合が多い。こういう者等でも、本を読み、言葉を操っていれば、かなり世間を、日本の場合は、ごまかせるのかもしれない。そういう者等は掃いてためるほどいるだろう。 俗から脱するとは、超俗で悟りすますということではない。感傷を排した孤独の切実さのようなものだ。自分自身と、あるいは対象そのものと、格闘している切実さ。ほんとうに「仕事」をしているかという、自分にしかわからないことである。そこでは〈社会評価〉を当てにすることは、ひとまずやめねばならない。それが俗から脱する(脱俗)ということだ。「優れた」とかいうことでもない。そんな基準はどこにもない。いっさいの相対性は意味を失っている。探求する自分の実感とのみ対峙している。





愛と美と信仰について という題にいま おのずからしている。自分がこれまで書いてきたことから しぼりだされてきた(収斂してきた)焦点である。そこに実感において探求すべきものがある。自分で掘削すべきものがある。


嫌な季節になってきた。すこし緊張するだけで神経系が不快になり落ち着かなくなる。思惟反省に適さない状態になる。


純粋状態とは格闘状態である。


いいふうに言葉を紡ぐことはなんの意味もない。このいみでぼくは詩人ではない。





愛と美と信仰 それはひとつである 純粋状態である それがくるおしくさまざまに変遷するのだ いや そういうことを言うのも一度きりでいい ぼくの実感がどこまで実感できるかだ ぼくは自分のやるべきことについて途方にくれている





「信仰」を加えた意味がはっきりしてきていると感じている。「私的形而上学日記」という以前の題で示していた「形而上」が、「信仰」という言葉で復活している。ぼくにおいて、愛も美も形而上にかかわるものとして真であるのだ。それを「信仰」が示している




ぼくはこの欄を書き始めていらい、情感と洞察のある文章を書きひとつの内的世界といえるものを言葉で現前させることがぼくにもまだできることが喜びであり、いまもそのような営為への意欲は沸々としてあるのを覚えるが、さらにいまのぼくはそれにとどまらず、書きつつそれを越えてぼく自身が深化することを求めている 




「この欄の主題は、孤独と親密と神である」、とも言った。この意味するものは、美と愛と信仰なのである。日本人に最も欠けているものは、孤独であり、ゆえに親密が希薄であり、真の信仰が持てない。



「書くことは自分に行動すること」とぼくは言った。人間の価値はそのいだいている「思い」に拠ると言った。「書く」ということは、その「思い」の実証であり具現である。そのような書くことは真の「創造」なのである。
「思い」こそは「魂」である(これがデカルトからベルクソンまでをつなぐものだろう)。「思い」は「意志」であり「記憶」である。「記憶」であり「意志」である。記憶から意志が生ずる。これが「生きる」ということであり、「持続」(デュレー)ということである。
「書くこと」は、「魂を実証する」ことである





 


 

 

はじめてのオリジナル表紙






ぼくはなにに、だれによびかけているのだろうか ぜったいてきに きみによびかけている だからぼくには それがきみによびかけているのか神によびかけているのかわからない
ただ きみをとおしてしかぼくは神というものは思えない このことをぜったいてきに言える
このことが、神がひととなったという意味なのだ

〔神が人格であるのは、人間は人格のみを愛しうるからである。だからといってぼくは会ったこともないイエスを愛することも敬愛することもできない。福音書伝ではなく、イエス自身が自分を書き語ったなら別だったであろうが、高田博厚やガブリエル・マルセルが自らを語った言葉において現前する親密さにくらべうるようないかなるものもない。イエスは、ヤスパースが言うように「基準を与えた人間」ではあろうが(つまり人間がその言葉に照らして自分を顧みるよすがを与えた者ではあろうが)、人間がいつわりなく真実に愛するのは、自分に具体的現実的に現前するひとを愛するのである。そのように愛することにおいて、愛するひとにおいて、ぼくはあるものに向き合っている。それがぼくにとっての神であり、ぼくの愛するひとがひとつの人格であるかぎりで神も人格なのである。人間はひとを愛するかぎりでそこにおいて神を愛する。そしてそのひとと神とは不可分であり、そのかぎりで神もまた人格なのである。これほど納得できることはぼくにはないのである。これが「神がひととなった」という言葉の真意なのである。それを、キリスト教徒が、イエスと関係することにのみ限定することは、ゆるしがたい僭越なのである。人間は、自分が真に愛するひとにおいて、それをとおして、それとひとつのありようで、神に、空にも無にも置き換えられない神に、人格的に向き合うのである。〕



さんざん反省彷徨したあげく、「ひとがただしいのは よい思いをもつことによってのみだ」、と言い得るのでなければならない。けっして最初から直接に言ってはならない。




よき思いをけがす悪魔の子らは かまどにぶちこまれる。なぜならぼくがそれを本気で意志しているから。叱ってもきかない者等には、黙って刑を執行する。子供が天使だというのは完全な神話であって、子供の中にない悪が大人になって現れるはずがない。悪もまた完全なかたちで子供の中に見いだされる。



 

  • #集合的容喙現象一覧 IV
  • #集合的容喙現象一覧 III
  • #集合的容喙現象一覧 II
  • #集合的容喙現象一覧 I
    節題一覧だけ眺めてもなんにもならないのですよ。内容を読まなければ。一覧はそのために供している。世人は気持のよいことにしか関心をもたない。それならばいっさいの思想的言表はやめるべきだ。



    シンクロニシティ覚書
    やはりそうだ。シンクロニシティ現象はただ受動的なものではなく、こちらが能動的主体的につかみ直すことができるものらしい。メカニズムを逆用することができる。(ぼくのために言う要はないが、シンクロ現象の背後に霊界の関与があることは経験感覚から余りにもあきらか。ぼくの言ってきたことはすべて理に適い当っている。)