昨夜のドラマで、外国人に、「日本人は嫉妬深い」と言わせているのには、その場では意外な気がした。ある種の外国人には、そう見えるとしたら、それは当人にとってであって、当人自身の映し鏡としてそう見える(感じられる)のではないか、ともかんがえてみた。しかしいま思うのだが、かならずしもそうではなく、和を重んじているつもりの日本人は、じっさいに、嫉妬深いのではないか、仲間内どうし、同胞どうしでも・・・ というのは、記憶を思い返してみるだけでも、たいてい、日本人は、自他を比較し合ってばかりいる。その比較意識のなかに自分が埋没していることが多い。嫉妬とは、日本人を覆っている そういう比較意識そのものだろう、口ではいろいろ精神的なことを言っているようでも。そして、じぶんよりすこし境遇がめぐまれているように見える他者には、ひとこと余計なことを、頼まれもしないのに、言わざるをえないのだ(いい御身分ですな、などと)。これがネガティブな意味での嫉妬でなくて何であろう。それを妙な精神論のオブラートでくるんで自他にたいしてごまかしている。日本では、出る杭は打たれる。これは、和という衣に隠れた嫉妬であり、同調圧力である。だからいつまでも、日本人は、自他ともに卑屈であり、無理して謙虚そうにみえて、じつは劣等感によって高圧的で高慢なのである。外国人にたいしても言いたいことは山ほどあるが、とくに表に出て来る日本人(比較意識のエリート)をよく相手にする外国人から、人間として本音のところでよく思われるはずがない。 

 

 

 

日本人の一般市民のなかで生活することには、外国でそこの一般市民のなかで生活するときには無い、ネガティブな緊張がある。 ぼくはそれを受け入れることができない。 

 

日本のなかでのみ生きていては気づかない日本人の意識の欠陥というものが確かにある。

 

ぼくも記憶のなかのフランスでの生活意識を思いだして、じぶんの生活のなかに復活させよう。日本の生活意識を受け入れられないのだから。じぶん(ぼく)のほうから、じぶんの望む生活意識を発信するのだ。 (現在のフランス行政は問題外。ぼくのフランスは記憶のなかにある。行政面からは、フランスは、信じられないことだが、完全に死んだ。)