初再呈示 

 

「自然」に当面する「自我」内部の秩序

 

「自然」は、自我が当面するところのものである。「神」と云わば二重写しなのが「自然」であり「もの」である。

 

 

テーマ:

 

高田博厚の思想と芸術

 

 

 

 

高田博厚「音楽とともに」10 (著作集III、407-408頁)

 

 

《戦後の芸術現象がたいへん概念的になり、ことに日本でははなはだしい。そしてその人々は、・・・ 「人間感覚」と「自然」との触れ合いの無限性を、智恵の駒の細工のように考えている。ちょうど戦後世界中に氾濫したいわゆる抽象芸術が、真の芸術が到達すべき「抽象」とは全く異なったものである、と同様の錯誤です。これは人間の理論の討論で理解し、承服されるべきものではなく、「自然」が人間の概念の錯誤を教え、訂正してくれるものです。そして人間歴史を通して、高き芸術が私たちを感動させ、啓示するのは、まさにこの点においてです。

 これを最も直接に教えてくれるものが、もっとも感覚的、感情的、内面的な芸術である音楽でしょう。感覚することがすでに「抽象」であり、音 自体が純粋抽象なのですから、それをより以上に抽象はできません。ただそれを「秩序」づけるだけです。そこで「自我」が秩序づけるか? 「自然」が秩序づけるか? 真の「形(フォルム)」の意味はここで理解さ〔れ〕るべきでしょう。「自然」はなんらの「象徴性」を持っていませんが、「人間」が触れる時に、「自我」の中に象徴が生まれる。これが芸術の根源でしょう。》

 

同10 (同、408-409頁)

 

 

音楽においては、「自我」と「自然」は一つのものだろう。だから、「自我」の質が重要になってくる、とぼくは思う。

 

 

《 芸術現象は社会的には、ただ推移変化する「流行」にすぎず、皮相な人間はこれを「新しい」としていますが、芸術の純粋領域においては、「推移」とは常に「本源」に戻ろうとする要求から生まれ、そこでは必ず「秩序」と「自由」が反省されます。バロック音楽は一つの巨大な「建築」であった。それに対する「自由」は、再び新しい建築を築くための一素材にすぎません。それならばこの「秩序」なるものはどうして得られたか? ただ漠然といわれている「伝統」か? それとも「自然」に当面する「自我」内部の秩序なのか?》 

 

同10 (同、410頁)

 

思惟が灼熱している名文。 

 

 

 

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