4度目の再呈示。しかし3年ぶりだ。書いたのは5年前。いま読んで読み応えがあり、その集中性に啓発されるのは大したものだ。

 ネガにおける超越者の発想はマルローにもある。

 

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独立的であるがゆえに普遍的であるのが哲学思想であり、そういうもののひとつであるヤスパース思想にも、しかしやはり独特なものがあるのではないか。日本の研究者が彼に、「あなたは神を信じますか」と尋ねたところ、ヤスパースは、「わたしに愛を贈ってくれる超越者を信じないわけにはゆかない」と答えたそうだ。彼の思想で、超越者からの自己被贈性(「わたし自身」は超越者から贈られるという本性をもつ)が言われていることは周知である。これが実存と超越者との関係性なのである。したがって、本来、「わたし自身」である実存の本性は愛であり、これを贈ってくれる超越者は、愛の根源なのである。「わたし」にとって「わたし自身」が欠落している刹那がありうるのであり、この自己不在経験により、実存の、一種の超越的依存性が自覚されるのだ。それは、「わたし」が本来の愛を欠いている刹那である。それは同時に、「わたし」が「不安」を覚えている刹那でもある。この「不安」から「わたし」は超越者を思念しつつ己れを超越者のなかへ投げ入れる決断を繰りかえすことにより、超越者から本来の「わたし自身」を授けられる可能性を自分で創出する。「神」への動的な関係であり、絶対的意識を扱った章で、「根源における運動」として叙述されているものである。

 こういう、超越者への決断的関係性は、ヤスパースにおける独自なものと言えるのではないか。あるいは、われわれが事実的に遂行していても記述的に表現していない内的行為を、ヤスパースが意識化し明らかにして触発的に想起覚醒させてくれていると言うべきか。高田博厚にはこういう叙述はみられず、「神」は、自分が自分自身へ行動しつつ向ってゆくものとして自分が当面しているところのものである。もっとも高田も、「自分自身への行動」において事実的に超越者への決断を繰りかえしているのではないかとぼくにはおもわれる。ただ彼には、「神の顕現」にはそれでは充全ではなく、さらなる「神秘」を期するところがあるのだろう。

 そういう展望のなかで、ぼくにも、ヤスパース的な超越者への関係性を働かせることが必要と自覚する刹那がある。「現存在」に生きている必然か。そういうときは同時に「隠れている超越者」がぼくを最大限支えてくれている刹那でもある(なぜならぼくが内心で超越者へ志向し呼び掛けているから)、と解することにしようとぼくは思う。










 


 






 

 

 







「愛と死の思想」
この作者の精神気質はぼくとまったく同一だな。こういうことはめったにないことだ。文通相手の女性が「神戸」へ行ったあと、東京に残った作者も療養のため伊豆へ行く。生命の五月。眼の前は 「さつきの花の真盛り」 だそうだ(作者は傍点をふっている)。読みかえしていてちょっとびっくりした。


 「高踏的な魂の淋しさ」 とある   



 「曇り日には、海も空もひとつになって、いぶし銀のように鈍い光を放っている。
 そういう日は、ぼくも砂の上にうずくまって、だまって海を眺める。そうすると、ぼくの身体の中で海の音がきこえはじめ、ぼくの身体の中で海が静かに考えはじめるのだ。」
 
  31頁 



裕美ちゃん、これはきみの音楽の音だね:

「五月雨は、生きいきとした若葉を背景に、さわやかな音をたてて、明るく、しかも幾分の寂しさをまじえて、あたかもそっと心の扉を叩くかのように降りそそいでくる
 五月雨の音は、たとえればモーツァルトの音のように、敏感で、そして澄んでいる。そこにはいかめしい体系があるのではない。しかし、類を絶して鋭敏な感情が、響たかく、そして自由に流れているのである。」

  32-33頁


いま、きみの浄い浄いインディーズを聴いている ほんとうにこの言葉のとおりだ この言葉の意味をそのまま言葉を超えて経験させてくれる そのときぼくはきみの魂の世界の崇拝者になることを無限に新鮮に繰りかえす。どんな天使よりも浄らかなきみの魂の
  この感動は経験した者のみ知る  こころを鎮静させてお聴きなさい











「湯ぶねのふちに頭をのせて、手足を思いきりのばして目を閉じると、瀬の音にまじってなお軽くさわやかに、雨の音が聞こえていた。
 湯からあがって、傷口の手入れをし、雨に濡れた庭の若葉を眺めながら汗をふいていたとき、ふと、
 「あなたの感情は哲学の試金石です」
と、ゲーテに書き送ったかの独乙理想主義の精髄フィヒテの言葉が、ぼくの心をよぎった。
 部屋にもどり、縁側に出て、雨に濡れた青葉の色に心を浸しつつ、その言葉を反覆しているうちに、ぼくは突如、ぼくがいままで考えていた《哲学》というものからの解放を実感した。そして、もろもろの論理形式から生きているぼく自身の実存を解放し、思惟体系から生きた魂を解き放し、さまざまの人為的制約から生命そのものを解放することの急務を、ひしと感じたのである。


 ぼくはいままで思惟形式ばかりを求めすぎていたのだ。もちろんぼくは思惟形式をたんに《形式》としてだけ求めていたのではない。ぼくは生きるためにそれが必要だと考えていたのである。言いかえれば、いまのこのぼく自身をそのまま包摂するような思惟形式が見つかれば、ぼくは自分自身をこの人生のうちにはっきりと位置づけることができるであろうし、そのことによって生きることができるであろうと考えていたのである。そのためにぼくはいままでさまざまの《哲学》を渉猟した・・・
 しかし、ぼくに本当に必要なのは思惟の形式ではなく、生命そのものなのだということが、いまやあますところなく明瞭になった、といまぼくははっきりと感じるのである。


 雨は夕方になってあがり、そのあとめずらしく濃い霧が立ちこめていた。
 いま瀬の音だけがさらさらと聞こえている。」

  33-34頁


いまぼくはこれを写しているうちに、倫理の定義が浮かんだ。ぼく自身のものである:

 【 倫理とは、魂への礼儀である 】

すべての感情問題すなわち人間間問題は、この定義された倫理を破るところから生じるのである。様々な破りかたがあるが、上で言われている、生きるための思惟形式も、運用の仕方によっては、魂への礼儀を破るはたらきをするだろう。人間の精神を特殊側面のみみてレベル分けすることが、さまざまな精神図式に拠ることによってなされる、これらすべてが「魂への裏切り」であり、反倫理的行為として、「罪」となるのである。実存の真実は、あらゆる思惟形式・精神図式を、超えたところにある。〔この倫理を積極的に破る者は、己が死を以て償わす。〕
 
哲学やスピリチュアリズムの名の許に、魂への反倫理的言動が為され、要らぬ、まったく反創造的な不和軋轢、憎悪を生み、なにが精神性なのだという、昔ながらの宗教抗争と同質の魂軽視いや魂無視を再生産し続けている。昔の宗教裁判を云々する資格は現代人にも無いのである。




「きみの魂から魂へ伝わる浄い音の響は、魂そのものの試金石だ」 とぼくは言うだろう