山師的な自己中、粗野な(あるいは未熟な)自己中が、多すぎる。人間はだれでも自己中であり、ぼくも自己中であるが、すくなくとも山師的あるいは粗野な自己中ではない。自己中ということで一緒にしてもらっては困る。これは肌感覚で解るだろう。一緒にすること自体が詭弁なのだ。ぼくがこのところ言いたかったのはそういうこと。しかし どうしてぼくが〈自己中〉などという世間的な言葉をほんらい使っていいだろうか(もっとよい言葉がなければ、égocentrique という原語をそのまま使うのがよい)。このことをさいごに言っておく。たまたま「自己中」という言葉に触れたので、ぼくの立ち位置を示すためにここで使った。自分軸という言葉もあるが、これも とりあえずの言葉である気がする。ヤスパースの言う「絶対的意識」の、個における歴史的顕現、と言えば哲学的に正確だろうか。(それにしてもよくヤスパースは絶対的意識という観念に想到したものだといつも感心する。)

 

 

 

 

別事 

繁栄することは何ら真理の証拠にはならない。繁栄が真理の証拠なら、この世はもっとまともなものになっているだろうから。