人間は、自分について確かな判断意識を有することができれば、人間として合格である。そういう人間もまた、そこから必然的に外部や他者についても判断意識をもつことになるが、そういう人間のもつ外部や他者についての判断意識は、きわめて信頼の置けるものであるから大丈夫である。じっさいはそういう人間は稀にしかいない。ぼくが繰りかえし言おうとしているのは、このことである。外面をどんなに壮麗・立派に立ち上げても、そういうことができても、そういうもののなかに立派な人間がいるわけではない。ぼくの簡素な実感判断に持ちこたえられるものではない。 

 

 

最も深い人間というものは、自分の弁護者を自分自身においてしか見いださないであろう。