一言で言うと、傲慢には、見据えた上で腹を括った覚悟があるが、高慢にはそれがなく、たかをくくって油断し、あぐらをかいている。

 

 

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まだ再呈示節していない節にも名文がある。じぶんの書いた過去節がこんなに面白い「テクストの快楽」をあたえてくれる読み物になるとは!

 

ぼく自身の書いたものの再解釈が、ぼくの欄の仕事の一つとなってきている。

 

《生きている人間がそんなに単純に把握できるわけはないのに、「純粋さ」と「したたかさ」の、ひとりの人間における共存を認めることにさえ人の想像力はもう息切れをおこしている。それなのに相手を断定することをやめない。それこそを高慢という。》

 

 


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もう人として見做さなければ怒ることもないだろう。


デカルトは実際、〔真理を見出す為の方法的な〕懐疑の過程においてだけでなく、生の実践においても、人を「自動機械」と見做した(判断した)だろう。自分の愛するひとを除いては。こうして自分の孤独を確保した。暫定道徳〔真の原理に基づく道徳を見出すまでの仮の道徳〕はすでに実践道徳である。これはデカルトが自分の著作で公表していない自分の個人道徳だったろう。でなければ『省察』の懐疑のなかで 〔「いま通りを歩いている存在は人間ではないのではないか」というかたちで〕 この「自動機械」観念を持ちだすはずがない。かくして、情念を動物精気〔体内を流動する微細な粒子〕の運動に還元する彼の『魂の諸情念』の冷徹な観察と分析が成ったのだ。じつに、この書の、情念にたいする治療効果は、そのように情念を扱う態度そのものに、その秘密がある。

これを人はデカルトの傲慢と見做すだろうか。ぼくの見解はそうではない。これが傲慢なら、それは高慢とはちがう、ひとつの徳である。〈デカルトが傲慢である〉という言葉は再三聞いた。(そういえば不思議と〈高慢〉であるという言葉は聞かなかった。感覚的にみな分けるらしい。「傲慢」には「力」がある。)その程度の者しかぼくの周りにいなかったということか。ぼくはよほど、隠れたしたたか者だったのだな。


生きている人間がそんなに単純に把握できるわけはないのに、「純粋さ」と「したたかさ」の、ひとりの人間における共存を認めることにさえ人の想像力はもう息切れをおこしている。それなのに相手を断定することをやめない。それこそを高慢という。


「純粋」と「したたか」の共存がなければそもそも「知性」はないだろう。これは実践的な事実である。真の偉人から学ぶことである。