この節と、きょう書いた「ぼくが謙虚になるほど言いうること」を、ともに読んで、ぼくの意識の位階を判断してもらえればよい。ぼくは矛盾したことを言っていない。一貫したことを言っている。

 

 きょう書いた節のようなことをぼくはあまり言いたくない。しかし 一度か、何度かは言っておきたい。そのときはぼくが腹を括って刺し違えるつもりで言うときである。安易に言っていない。

 

 絶対的意識の有無がすべてである。 ぼくが完全か不完全かという問題ではない。

 

 

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「じぶんを肯定していられるための思想を他に押しつける」、これこそ自己中心の態度なのだが、自己普遍の態度、と言ってもよい。 自己の普遍化が、精神的自己中心主義の本質である。これこそ、本来の意味での精神病である。

 

 

「形而上的実存思想」、これがぼくの形而上的アンティミスムの近似的な呼び名だろう。(「実存」という呼び名もあまり好かないのだが、「観念論」と対比させるには有効だ。 いまのスピリチュアリズムも観念論である。哲学のこわさを、哲学の本質への無知のために、知らない。)

 

 

 


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簡潔にこう定義できる〔狂信者の定義〕: 

 

じぶんを肯定していられるための思想を他に押しつける者。 つまり、信仰の意味も思想の意味もわかっていない者。 じぶんを肯定できていない者(じぶんを否定する場合も、けっきょく不正な肯定である)。     

 

 

 

 

 過去をふり返って、そういうふうに書かざるをえない経験があるのだ。いまの ぶろぐ界など 問題ではない。

 

 

 

 それにしても人間というものは、おなじような良識然とした顔をしていても、次元の差が甚だしい。そして、低い次元の者にかぎって、われこそは次元が高いと思い、他の面前で、それを平然と口にする。

 

 

 人間のシステムそのものがちがうのだ。 三次元人とか五次元の者とかいうことではない。 そういう次元差をつらぬいて、人間のシステムそのものが、個々においてちがう。 それに気づかない者は、いつまで経っても、人間の経路によるちがいというものに気づかない。ところがこれこそ本質的なことなのだ。

 

 だから、ぼくが「次元」というとき、数的次元のことではない。所謂精神世界者が無視している、教養的次元のことをいっている。 言動や発想の次元のちがいを、仮にシステムのちがい、といっている。 教養とは学識でも知力でもない。 

 

 それをぼくはずっと言っているのだが。

 

 

 最近の表現では、観念論と、形而上的実存思想のちがい、と おおまかにいってもよい。