ぼくは、じぶんの本性をむきだしにして生きてきた。だからこの世の対人関係からすれば破格の態度・言動もあったが、その本性をみるかぎり、ぼくはそれを肯定できる。いままで、ぼくの意識がぼくの本性に追いつかなかったかぎりでは、肯定しなかったが、ふいにいま肯定できるようになっている。充分にこの世から離れないかぎり、自分については透明になれないものだ。 

 

 

ぼくの本性とは、ぼくの魂である。ぼくの魂のためにぼくがこの世との関係において為したかもしれない〈罪〉は、おおくの者がじぶんの魂にたいして為す罪にくらべれば、問題にならないとぼくは思う。ぼくの経験したと思っている〈罰〉も、じじつ、罰というよりも不都合にすぎなかったと、ぼくは感じる。