テーマ:


自分のために: 


テーマ:自分のことについてゆっくり書きたいという気持がある。自分こそは、読むべき最大の書物ではないだろうか。自分を書くことのなかに、思想というものが、自分自身に根ざすものとして確認理解されるようになるとおもう。他者の書物を追っているだけなのはせわしない(しかしそこにも自分が写しだされているだろう)。自分のことは走り書きしたようにしか思っていない。その都度部分的に書くしかない。
 書いていれば、ぼくは「仕事」をしていることになる。何々について書く、ということに拘束されなければ、ぼくは自分を(なにを書いても)存分に書くことになる。そして、自分の務めを日々果たした気持に安んじることができる。モンテーニュの「エセー」もその集積なのだから。そして 自分のことのみ語ろうとするデカルトのあの短い「方法序説」のふくむ率直かつ辛辣な深い人間知の披瀝に、読み返して驚いている。あれこそ「レゾン」(raison)であろう。もちろん、モンテーニュ、デカルトの書き方は、各々一回かぎりのものだ、そこにどんな普遍的真理と真実がふくまれていようとも。 ぼく自身はぼく流に書く。そのことによって、ぼくもまたぼく自身の根源から「普遍的人間」に参与しこれを映すことができる愉悦と栄光に浸りたいとおもう。ぼくは彼らと比べても、ゆずることのできない素晴らしいものをいっぱい持っていることを感じている。この純粋な自負心をぼくは生まれてから持っているので、侮辱というものに、その片鱗でも敏感で、その示唆にたいしては、たとえ身内でも許さない。

ぼくは「人間崇拝」者なのだ(ぼくが多くの者達に辛辣――けっして面前では言わない――なのは、その感情の裏返しであると思う)。愛するひとを、尊敬することなしには愛せない。そのかぎりでぼくは精神主義者であり魂主義者であり、プラトニシアンなのだ。 そしてまたこれは別件であるが、相手の気持に逆らうことを面前ですることができない。相手の不快を予測するから。だから、この予測感なしに、あるいは予測感があるにも拘らず、相手を面前で侮る者の心性というものが、どうしてもわからないのである。ぼくの殆どの他者経験をふりかえると、その、諸々の他者の「教養感覚のなさ」に暗澹とする。人間とはこれほど醜劣でひどいものか。ぼくにも失言の類はある、がしかしそれをぼくは自分で完全に意識しており即座に反省することができる。これができない者が、学識有無を問わずごろごろしていること、これにぼくは心底あきれている。

なにか、ぼくは一般他者と、根本から違う「少数派」であるように思う。最近はこういう「派」を何とかと名づける言葉があるらしい。それは素質や一般傾向であって、「人間」として自分を掘りさげたり培ったりすることとは違う。占星的分類と同じである。


夜郎自大が心中で他者を侮っているさまはひどいものである。それを表明しなければよいが平気で表明する。これは、高慢であるうえに思い遣りの感覚がないことをしめしている。思い遣りがあればほんとうに高慢にもならない。だって思い遣りは、相手も同じ人間だという平等感覚を前提するから。己れの高慢傾向を自分で打ち消す意識感覚を自分のなかに持っていることは尊いことである。どうしてこれがないのか、これが欠けているなら あらゆる精神的志向はひとつの虚栄心にほかならない。「神」意識がないことと「人間」意識がないこととは同じであることに繰り返し想到する。邦びとはこのことについてこそ懺悔すべきである。〈無〉や〈空〉では「神」は置き換えられないのだ。真剣に「自己」を大事にすれば・・・


夜郎自大になるのはみずからに侮りの心があるからである。






「純粋な自負心」、これもまぎれもなく「絶対的意識」の自証であるとぼくはおもう。





その都度、気の向くことをやるのがいちばん自然で、かつストレスがなく、よいだろう。
逆に、
なにか或る行為をするに際しては、「気」を先導させるとうまくゆく、という、興味深いことを西郷南洲は云っている。 これをおもうたびに、彼も相当な「意識者」であっただろう、と思う。


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ぼくも こういう状態なので一層、そのときどきの感情に左右されざるを得ず、しかもその感情は、ひとつひとつ相当の理由があるものである(存在論的に正当な感情といえるものが沢山ある)が、それでも、内的秩序枠を本質的に超えることのない自分をいつも感じている。これもまた 「絶対的意識」の自覚が保たれているからである、とぼくは思う。いわゆる「芯がしっかりしている」という言葉でいわれているものは、これいがいにかんがえられない(実際そう言われている。強靭である、とも)。


裕美さんの芯のしっかり仕方はすごいですよね。なみのものではない。
 演奏そのものと、その所作表情に、すべてそれが出ている。
 〔PV



そうでなければ いかなる思索も演奏もきちんとできない。


芯がしっかりしていない人間はだめです。ほんとうに芯がしっかりしているか、それは、主体が対象を扱う緻密さにあらわれます。勢いでも根性でもないのです。もっと根気の要る地道なもの、それが感じられるか否か。計算ずくでも力ずくでもなく、どれだけ誠実に「もの」と格闘しているか。これがほんとうの真摯さであり、学問研究者でも まがいものがたくさんいることをぼくはしっている。ぼくはそれを判別できる。ぼくの眼差しはこわいですよ。



ほんとうはぼくはもう書物研究から自分を解放して、やっとみえてきた彼女の演奏に純粋に沈潜するのがいちばんいいのだ。それがぼくの魂のためにも彼女との交わりのためにももっともよいのだ。これを中心にしたいとおもう。古い性(さが)である文献解釈は、ぼくの生でふたたび支配作用しないようにする。ぼくの「解釈」は同時に「創造」であり「自己経験の確かめ」であり、独自の形態をとる。しかもぼくの生そのものをしめすことにより同時に思想の本質を感得させることが、この欄でのやりかたなのだ。
 ルノワールが、最初 絵画美を追究していたのだが、やがてみずからその「美」そのものに「生きる」ようになり、彼の描くものは 彼がいまやその中で生きている幸福の「しるし」のようなものとなる――そのようにぼくも書けるようになればよい。

25日minuit


ぼくのすべての生の幸福は破壊されてしまった。だからいまこそ幸福を創造しなければならない。

どうやらこれこそ『初心』に戻ったようだ。此の世にぼくの幸福の居場所はない。そこから始めた電子欄だから。このなかにぼくの幸福を見出そうとして来、そしていまやこの欄さえ超え出てメタフジックな境そのものに生きるのだ。高田先生のいう魂の窓である外界風景の奥に、魂の想像力のしめす純粋自己の記憶の王国に入るのだ。

此の世にまだ属している者達とは関係ない、此の世への義務からはもう解放された、僕の路だ。

 

 

 

 



ヤスパースの思惟は偉大であるが、その観念世界に拘泥していると、実存を思惟するのみで、純粋に自分の実存を、実存という言葉さえ忘れて生きる感覚を、うしなってしまう(彼自身その危険を指摘した通り)。だからぼくは、ヤスパースの実存観念そのものを忘れて高田先生と共に生きる道を、ヤスパースに押し出されるように、選んだのだ。そうしてはじめて、彼の思想をも、いまのようなかたちで自分の実体で定義し解釈する境位にも至ったのだ。


自分の納得のゆく道が本道であり、自己承認が生命である。