中田光雄著『諸文明の対話 マルロー美術論研究』を今月22日に完読したが、読むほうも大事業だった。頁が上下段に分かれてびっしり引用とともに書かれており、読んでいる間じゅう、感銘を覚える箇所もすごく多いのだが、引用されているマルローの原文を解説する著者の文章が、マルロー自身の精神の高揚や律動とは異質で、開放感がなく息がつまってしまう、それにつき合うのがものすごく大変だった。思想を生きている人間と、それを枠組み立てて説明する人間との差異は、これほど大きいのか、という思いを強烈に焼きつけられた。 

 

 

高田博厚研究の裾野を広げるための勉強として読み、それはとても有益だった。マルローの美術論は、ヤスパース的な健全な実存哲学の、美術の次元における世界史的展開の試み、として理解できることが、とても嬉しい。高田博厚の思想の射程も、そのように広いことが証言され、解ったから。 

 

 

ぼくの高田博厚研究にこれをどう組み込むかを、待ったなしでかんがえてゆかねばならぬ。 

 

 

 人間がじぶんの身を委ねている社会というものは、おそろしい化け物であるが、それは昔からなのである。精神的営為に集中しているかぎりにおいてのみ、人間は世界を超越し、自由でいることができる。マルローも高田博厚も、全芸術史とともに、それを証言している。これは逃避ではなく最高度に積極的な人間営為なのである。そこに「神」とともに「人間の尊厳」の根源がある。この世とは別に、この世と交錯しつつも 「もうひとつの世界」がある。それを知ることが 「人間となる」ことなのである。