マルローの世界文化論を、その美術論を通しての勉強をしているが、マルローの美術論そのものというより、その美術論を解説している邦人著者の、理解の姿勢に疑問をもつ。その理解において、西洋と東洋を文化的に並存させているのだが、西洋の人間探求の深さは、東洋のそれに並ばせられるものではないと思う。東洋の一民族・日本人の人格内容の浅薄さを、ぼくはいやというほど見てきたからであり、この浅薄さを克服するために西欧を学ぶのでなければ、人生の意味もないからである。おそらく、ぼくのこの疑問を、マルローも腹の底で承認するだろう。

 

邦人のする安易な東西文化同価値論ほど、いい気なものはないと、ぼくは思う。それでは、文化比較の意味すら無くなってしまう。個人が、文化の我有化過程において生きる、精神のダイナミズムこそすべてなのだ。それを措いて文化なるものがあるのではない。上の著者もこのことを承認すると思うが(*)、その著述が日和見的図式性にすぎるところがあるので、いったいあなた自身は何者なのですか、という疑問も籠め、上の疑問を呈する必要に想到するのである。

 

 

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(*) 《東洋と西洋、過去と現代は、おのおのを構成する多様な諸側面において、複雑に交錯しあっているといえよう。「協応」は、この基本線こそ図式的に確定できるが、それを超える豊麗さと多彩さにおいて生動していることを忘れてはならない。》

 

中田光雄『諸文明の対話』210頁