怒りは、その価値を承認するまでは、観念的には自己にとっても忌まわしいものであるが、それを承認するに到るなら、落ち着きをあたえるものであることがわかる。

 

そして、怒りの価値が相互に承認されるほど、人間はふたたび、礼儀というものを互いにわきまえるようになる。どうせ怒らんだろうという甘い前提による言いたい放題は、抑えられるだろうから。

 

正しい怒りは、理性にかなったものである。怒りを一律に禁じることは、観念論であり、偽善である。われわれは一般に、観念論の理性しか知らないから、真の理性に目覚めるには、限界状況を単に思惟する意識次元を突破して、みずから限界状況を現実に経験する境位に沈む必要がある。そのときはじめて、観念論的理性の偽善が解り、まずそれまでの自己の驕慢を懺悔し、観念の言葉は自己のなにものも証言しないことを知り、自己の現実の器に直面することになる。そのとき、賢明な者ならば、それまでの自分がどれだけ驕慢な言動を他に為してきたかを悟り、恥ずかしさのあまり他に顔を合わせることができない一時期を送ることになる。

 

観念的倫理道徳はそれだけで、封建的なものであり、正しい理性の抑圧装置として、ずっと日本のような国ではたらいてきた。維新以前の身分制度の苛酷さと、それにもとづく残酷な人間抑圧は、周知のことである。

 

どれだけの人間が維新以前の観念を脱いで、人間の理性を纏うに到っているだろうか。便利で権威ずくの観念があると、人間はものを判断するのに自分の経験にもとづいた自己の掘り下げを、なかなか日常の営為とせずに、無根拠な同調感情で一生生きることとなる。これが、いまもつづく日本人の大方である。昔もいまも。

 

 

ほんとうの愛があれば怒るはずなのに、怒りを麻痺させることが倫理なら、愛も麻痺するしかない。日本人は根源的に生きることがいまだにできないことの所以である。