世の人間は、他を好き勝手に批判するとき、感情の性質のすり替えを行なう。他のいだく怒りを悪意と呼ぶことなどは、その例である。では、あなたはどれほどの悪意を、当の他にいだいているか、と問うてあげればよろしい。およそ、感情に翻弄されているとき、判断は偽り・詭弁となる。感情のままに判断して正しいのは、人間がよほど純粋な場合である。
いわれなき嫉妬によるような、悪意にもとづく言葉は、かならず その人間に返ってくる。じつはじぶんでも解っているのである。だから、じぶんは偉い人間ではないなどと、もとめもしない言葉をみずから付けたす。そして、偉い者ではないので、やはり言葉を控えることができない。こういう人間を、地獄いがいの何が待っているというのだろう。世の者のほとんどがそうである。
感受性が多少あっても、それが正道や救いにどうつながるというのか。 関係ないと思う。
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別事
過去に、ぼくを心から笑った者たちは、いま、ぼくに心から笑われている。何のためにこういうことがあったか。神は偉大であることを知るためにである。人間の〈常識〉に反することを、神は為したもう。けっきょくは、ぼくが信念を曲げなかったからだが。