貴樹は、十三歳のじぶんの根源経験に一生忠実であることを人生の意味と思い定めて生きつづけるのに、明里は、その共にした愛の根源経験を、「わたしも彼も子供だった」、と、過去の一時期に留めてしまう決定をした。これがふたりの分岐点だと思う。貴樹は形而上的・哲学的な生を志向し、明里は日常的な生を生きることへ赴いた。その日常的な生を肯定するために、「わたしたちは子供だった」、と、ふたりの過去の意味を塗り替え、あるいは解釈した。真実に嘘をついたのである。嘘を真実にできなかったその代償は、真の喜びのない結婚であったことは、作品が十二分に表現している。こうして嘘をじぶんに一生つき通して生きるのが、多くの女性の性であるようだ。男は健気であり、その理想主義そのものが、男を支え救うだろう。そこに人間の尊厳が現われるから。ぼくは貴樹に拍手したい。 これで書いておきたかったことを書いた。

 

 

これはほんとうに深い作品で、これひとつで制作者の名は永遠に残るだろう。 

 

 

 

 周囲に従うしかない女性の受動性の定めと、世界に能動的に立ち向かう男の意識との差が出ていることも、斟酌すべきだろう。