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精神的主体性を確立しないうちは、感謝も反抗も依存である。精神的主体性があってはじめてほんとうの感謝があり、ほんとうの怒りもある。精神的主体性はそれじたい価値であり、尊厳であるから、それを尊重しないことにたいして、ほんとうの怒りは生じるのである。 しかしこの精神的主体性は、相互主体性とともにあるのである。これを納得してはじめてほんとうの愛を理解する。 

 

 

ぼくが怒るとき、自尊心からではない。ぼくのなかに現われている尊い真理のために怒るのである。

 

 

このマルセル的相互主体性を理解することは、ある意味難しい。問われていることの門を開くために、マルセルは膨大で深淵な思索反省を記した。 ぼくは、相互主体性とは、ぼくの思いが同時に相手からのものであると感覚する包括的充実である、とおもう。 たとえば、ぼく、あるいはぼくの思念は、ぼくの思念する現実と対立し合うことなく浸透し合っていて、そのかぎりにおいて同時的(共時的)である。時間的同一性が問題であるのではなく、ぼくの思いが、現実(相手)と浸透し合ってのみ在る(生じる)のだ。もともとそういうものであることに目覚めることが、問題となっているのだ。 マルセルの本意を超えても、ぼくにはこういう意味での相互主体性が問題であり重要なのだ。   

 

 

 

言っておくが、ぼくは複数原理の立場であって、この世のすべてが同一の原理に拠っている、というような、大風呂敷を広げる傾向には感心しない。 思いと現実との間には、そういう在り方でみられるところもあるだろう、と言っているのである。 そのうえで、たとえば、意志の力は限界づけられない、と言おう。