悟りや救いとは、ぼくの思うところによれば、憎む者を愛したりできるようになることではない。まったくちがう。憎むには理由があるのに、どうしてその反対の感情になれるのか、なる必要があるのか。憎む者をますます憎むが、そのままで自己が保たれている、というような意識が、悟りや救いと呼んでよい意識なのである。しかし、よほど自己がしっかりして本物でないと、こういう意識であることはできない。本物にとっては、迷いもじつは迷いのうちに入らないのである。本物は、迷いを楽しむことができる。
マルロー的意味での真の芸術家は、たぶん、このぼくの言ったことを理解しているだろう。淋しい季節に没入して却って感情を統御して芸術的フォルムとしての演奏を創造できる裕美ちゃんのように。
救われている人間、というものを、世人はその実際を知らないものだから、まったく間違ったイメージをもって探し、判定する。 おろかしいことだとおもう。