知性と幸福

 
 
・デカルトの「懐疑の哲学」を「拒否の哲学」として理解するアランの哲学
 
《明証を待つだけでは足らぬ、さらにまた自然の中に何か稀な貴い物を探すときのような仕方で明証を求めるのでもまだ足らぬのであって、明証全体を自らつくり出さねばならぬ、しかも対象の法則に従ってでなく精神の法則に従ってつくり出さねばならぬのである。すなわち、一度きりでなく常に繰りかえさるべき懐疑と拒否とを命ずる規則なのである。実に、分析するとは、選択し保留することでなくて何であろうか。そうして、デカルト的秩序とは、全体としてかつ不可分に与えられたこの世界に対する拒否、常にわれわれをしてあまりに多くのことを承認させるところの現前の事実の与える重苦しい明証に対する拒否、でなくて何であろうか。》
 アラン『デカルト』 109-110頁 
 
この「拒否」の精神が、アランと高田博厚の最も共通するものである。
日本人にとって重苦しいものは、西欧人にとっても重苦しいのである。しかも後者は、自然と世界に堂々と対抗する人間文明を築いた。これがしばしば、自然の征服などと、あまりに単純化して性格づけられる、西欧文化の力強い人間的な本質なのである。  
 
 
・「想像・悟性・意志」の秩序
 
《あのように贋せものの多い、明晰な観念なるものを吟味する方法は、自由意志が、その観念をあるいは形成しようとし、あるいは破壊しようとして、自らの力を試してみることである。この二重の働きこそ観念を成立させるものであり、観念はこの働きによってしか存在しない。観念はそれだけで十分なものと解せられると、忽ちにして心像に堕するであろう。》 
 アラン『デカルト』 112-113頁
 
ここに、自由意志、観念(悟性)、想像という、三つの人間能力の秩序が、みごとに活写されている。自由意志は、数学的悟性をも疑い超えてゆく力であり、まさにこの超越行為によって、悟性の領域のものである観念をはじめて明晰な、観念の名に価するものたらしめる。この力こそ、われわれにおいて常に働いておるべき《拒否の力》(112頁)なのである。 
 
知性とはまず、この自覚なのである。
 
 
・幸福の原理
 
幸福の原理は、現状と見えるものを拒否して本来の自分を見いだす、拒否の力にある。アランの哲学の原理はこれであったから、彼の哲学と、高田博厚の自我と芸術を探求する路とは、重なるのだ。 日本人の大方が物憂く重たいのは、この力に目覚めないからである。これは思想以前の問題である。そうすると(それに気づくとはじめて)思想なるものが分かってくるだろう。 
 
アランが、「デカルトにおいてはじめて思想が満足に達した」、と言うのも、デカルトがこの力を教えてくれるからである。
 
 
・懐疑の力 
 
じぶんの世界と観方だけがすべてだと思うことは、すでに狂人である。そういう人間は、アランの言うように、すべて心像のままに動き信じていることが解る。これを克服するには、真の懐疑の力が要る。悟性を超越することと違わない。真の知力とは、知性とは何かを、知るべきである。皆、これだけのことができないで、他を判断し、教えようとする。 
 
ぼくが明晰に理解するに至ったことである。